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感謝は罪悪感になり、そして行動力になる

自分よりも、他者のために動ける人に憧れる。

自分の承認欲求を満たすことよりも、アンサングヒーロー(※1)として他者に貢献することに没頭する人たち。

相も変わらず承認欲求にまみれて生きている自分にとって、彼らのモチベーションは謎に満ちている。


あるとき、まさにそんなふうに生きる人に、どうしてそこまで他者に献身的になれるのですか、と聞くことができた。

その人は、社会に対して申し訳無さを感じているからです、と答えてくれた。



僕は人間関係に恵まれていると思う。五体満足で生み、育ててくれた親。一緒に楽しく働くことのできる仲間。

彼らの顔を思い浮かべ、これまでしてもらった色々なことを思い起こせば、胸のあたりにぐっとこみ上げるものがある。

この感覚は「感謝」の気持ちだと思う。


この「感謝」の射程範囲をもう少し広げてみる。

世界がこんなに大変なときにも、私がこうして外出を減らし、リスクを抑えて生活できるのは、危険と隣合わせで患者を救い続ける医療従事者のおかげだし、電気、ガス、水道、通信、交通、ゴミ収集といった生活インフラを維持運用してくれているエッセンシャルワーカーのおかげだ。

ここまで想像すると、感謝というよりも、だんだんと「申し訳ない」という気持ちが立ち上がってくる。


さらに想像を先に進めてみる。



私は小、中学生の頃、いじめられていたことがある。

反対に、いじめられている同級生のことを、見てみぬふりしていたこともある。

未熟な人間が集まって生活していると、そこには関係性の歪みが生じる。その歪みのしわ寄せはたいてい、その集団にうまく適応できていない誰かに集中することになる。

回避率を上げるためには、強くなるか適応力を高めるか、逃げるか、運に任せるか。


自分で自分の居場所を選べるようになってからしばらく忘れていたけど、我々が「安心、安全」と思っているこの世界は、たまたま今いるこの場所が「安心、安全」なだけにすぎない。

幸いにも私は、30年かかったけど、自分で人間関係を選べる環境をつくることができた。そのおかげで、「しわ寄せ」が自分に来そうになっても身をかわすことができるようになった。

しかしそれは自分が恵まれていたからで、「しわ寄せ」から身をかわせないハードモードの世界を生きている人が沢山いることを、自分は知っている。



さて話がちょっと重くなりすぎた。こういう考え方を突き詰めていくと、幸福を感じること自体が罪深いことのように思えてくる。

しかしここでいいたいのは、「私達は誰かの犠牲によって幸福に生きていることを自覚し、慎ましく生きましょう」ということではない。むしろ逆だ。

この罪悪感は行動力になるのでないか、という仮説の提案だ。

「自分は受け取りすぎている」ということを認めることで、贈与の連鎖は起動する(※2)。

誰かに感謝されるためではない。善行の気持ちよさを味わうためでもない。「すでに受け取りすぎている」という居心地のわるさを解消するために、まだ受け取っていない人に分ける。という行動原理を起動するのである。

自分だけが、自分たちだけが幸福になることはできない。我々は、今、つらい思いをしている人がいることをいつでも知っているし、そのことに完全に目をつぶって生きることはできない。



『今の自分はとても恵まれている。幸福だ、ありがたい。』

という「感謝」の気持ちは、心身のコンディションを整えてくれるが、行動しよう、という気分にまでは至らない。

しかしそこからさらに想像をふくらませると、もはや感謝という言葉では言い表せない、申し訳無さがこみ上げてくる。これは感謝というより、罪悪感に近い。


そしてこの罪悪感は、行動に至る。



3.11のとき、多くの人が被災地へボランティアに向かった。

沢山の人が募金をした。

あのとき、大きな被災を免れた僕らが感じた「何かしなければいけない」という感覚。

あれこそがまさに、ここでいう罪悪感ではなかったか。

私は宮城出身で、震災のときは東京にいた。私の受けた被害など、東北の比ではなかった。私はあのとき東京にいて難を免れたことに、どこか罪悪感を抱いている。この感覚に心当たりがある人も、少なくないのではないだろうか。

精神科医ヴィクトール・E・フランクルは、アウシュビッツをはじめとする、過酷な収容所生活を生き抜いた。日常生活に戻った彼が思い出すのは、自分より遥かに良く生きた崇高な人々、そして崇高ゆえに、収容所で命を落とした人々のことだったという。

レヴィナスのいう「死者」「まなざし」も、もしかしたらこういった罪悪感のことをいっているのかもしれない。



何に対して、どのようなときに罪悪感を抱くか。

それは人によって個性があるように思う。

あるとき私は、散歩しているときに数人の下校中の小学生の集団とすれ違った。彼らは一人の子のランドセルを叩いてからかっているようだった。きっといじめだろうと思った。

そしてそのとき、自分は咄嗟に何もできなかった。ただ、その集団とすれ違うだけだった。

何年も経った今も、その光景を思い出し、あのとき何もできなかった自分を情けなく感じるのだ。

きっとこれは、自分の幼い頃の経験に根ざしている。

もちろん、地震のことも小学生のことも、私が罪に問われることはない。しかし法的に罪かどうかは問題ではない。

他ならぬ私自身が罪悪感を感じ、長い間自分を恥じ続けている、という否定できない事実がある。


私は何に罪悪感を感じながら生きているのか?

あなたは、何に罪悪感を感じる人間なのか?

この問いは、「私は何が好きなのか?」ということと同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に、自分の生き方を決める強烈な「個性」なのではないかと思う。

何を好きになるかと同じくらい、何に罪を感じるか、何を恥と感じるかということも、自分で選ぶことはできないものだから。



ところで、ここでいう「罪悪感」は、「誰かに植え付けられた罪悪感」とは、はっきりと区別しなければいけないと思う。

例えば親に対する罪悪感。

有言だろうと無言だろうと、「子供は親に感謝するべきだ(育てた恩は、親である私に返すべきだ)」というプレッシャーから、親に負債感(あるいは恩)を抱く場合があるが、これは贈与ではなく取引だ。借りた金は借りた相手に返さなきゃいけない、という感覚と同じだ。今回扱っている倫理的罪悪感とは全く異なる。

それに対し、

親に対して、到底返すことなどできないほどの恩を(私自身が自発的に)感じている。しかし、親はその恩を返してほしいなどという素振りを微塵もみせることがない。ゆえに、その恩を親には返すことができない。それゆえにその恩は、別の誰かに送らなければならない。

そういう感覚が、ここでいう「罪悪感」に近い。



(※)は近内悠太『世界は贈与でできている』より。

(※1)アンサングヒーローとは、エッセンシャルワーカーや医療従事者など、その功績が顕彰されない陰の功労者。歌われざる英雄(unsung hero)。評価されることも褒められることもなく(今はたまたまコロナ禍でその活躍がいつもより顕現しているだけ)、人知れず社会の災厄を取り除く人。

(※2)近内によれば贈与は、「私は受け取ってしまった」という被贈与感、つまり「負い目」によって起動される。つまり受け取ることなしに、贈与は開始できない。

読みたい本がたくさんあります。