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サボりたい自分と仕事したい自分、本当の自分はどっちなのか

伊藤亜紗さんと村瀨孝生さんの『ぼけと利他』を読んでいる。5か月くらい経つがまだ読み終えられていない。いい本すぎてなかなか先に進めない。

二人の出版記念の対談を聴いた。そこでは当たり前のように「ぼけが宿ったある方が……」といった会話がなされていた。それ以来、「ぼけは宿るもの」という考えが頭のなかをぐるぐるしている。

祖母が認知症に罹り、僕のことを忘れてしまった。でも話をしていると、突然、思い出してくれる瞬間があった。調べてみると、ぼけというのは濃くなったり薄くなったりするものらしい。

昔は酔っ払って記憶をなくすことがよくあった。あれは「酔いが宿っていた」のだろうか。ベロベロなときも、僕は色々としゃべっているらしい。でもそのことを当人は覚えていない。でも酔ったときにやらかしたことは、すべて僕の責任になる。

アフリカのどこかの国でお店を経営している日本人の話をいつだったか読んだ。現地の人をレジ係として雇った。ある日、レジのお金が足りないという事件が発生した。レジ係が盗んだらしい。彼を問い詰めたら「僕がやったんじゃない。悪魔にそそのかされたんだ」といった。日本でいう「魔が差した」ってことなんだろう。盗めてしまうところに置いておくのが悪い、という言い分もわからないでもない。「悪魔にやらされた」という表現は、悪意というのを、自分のなかから出てくるものではなく、どこかからやってきてたまたま自分に宿るものなのだと捉えているのだろう。その考え方はいいなと思った。

ぼけが宿った人は、自分の間違いを頑として認めないことが多いという。でも僕だって、家に帰ろうとしたら知らない人に声をかけられて、知らない施設に連れ戻されて、「あなたのお家はここですよ」とやさしく声をかけられたら不安になる。不安すぎてパニックを起こすかもしれない。

酔っ払ってるときに「あなたが暴れてお店のグラスが割れました。弁償してください」と言われたら、覚えていなくても弁償すると思う。

魔がさしてレジからお金を盗んで、それがバレたら、後悔して、謝罪して、抵抗せず警察に連行されていくだろう。

ぼけと酔いと盗み。これらにはどんな違いがあるだろうか。

ぼけは自分ではコントロールできない。でも、酔いと盗みはコントロールできる。お酒を飲むか飲まないか、目の前のお金を盗むか盗まないかを、僕らは自分で選ぶことができる。

と、されている。

でも、本当にそうなのだろうかと考えてしまう。

アルコール依存症という病があるように、本人の意思だけではもはやお酒をやめられない状態というのもありえる。

僕は依存症ではない。と書こうと思ったけど、カフェインがやめられない。カフェインの飲み過ぎで眠りが浅いこともわかっているし、神経が昂ぶって感情にも影響が出ているときがある、そんな自覚もある。

お酒は最近かなり減った。でもカフェインだけはやめられない。

やめようと思ってもやめられないのだから依存症といえるかもしれない。ただちに命にかかわりはしないというだけだ。

僕は仕事をしたいと思っている。でも、やりたくないとも思っている。この場合、どちらがほんとうの自分の意思なんだろうか。

おそらく、仕事をしたいほうの自分が本当の自分なのだと思う。

サボって寝ていたい。ゲームしていたい。そういう自分もたしかにいる。

でもその自分はたぶん「魔が差した」自分に近い。

お腹が空いたとか、眠いとか、エッチなことをしたいとか、盗みを働きたいとか、自分を見てほしいとか、称賛してほしいとか、これらは同じ種類のものだと思う。身体という悪魔のささやきなのだ。

身体はまごうことなき自分自身ではないか、と思っていた。でもどうやら、その考え方が自分を苦しめる大元らしいと最近は感じている。

身体はたまたま与えられたものだ。その身体は道具であって自分そのものではない。ちょうど、車やパソコンやスマホが自分そのものではないように。

この道具が、飯を食えとか寝ろとかあいつの興味を引けとか稼げとかSNSでチヤホヤされるような投稿をしろとあれこれ要求してくる。でもこれは身体のアラートであって自分のアラートではない。

肉体の欲求に抗ってまで何かをしたいと思うときがある。その想いこそが、おそらく人間にしかない原動力だ。


CM

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F太
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