【映画】「インサイド・ヘッド」~擬人化された感情たちと~
#20240820-450
2024年8月20日(火)夏休み32日目
映画「インサイド・ヘッド」は主人公の女の子ライリーの誕生から11歳までを描いている。
https://www.disney.co.jp/movie/head
ライリーの頭なかにある司令部には、擬人化した5つの感情「ヨロコビ」「カナシミ」「イカリ」「ムカムカ」「ビビリ」がいて、日々ライリーが幸せに暮らせるようあれこれ奮闘している。
どんな感情もライリーを守っている。
吹替版の「ムカムカ」は「Disgust」で、その意味は「うんざり」「むかむかするほどの嫌悪、嫌け」「いとわしさ」である。はじめ、苛立ちや腹立たしさの「ムカつく」を連想したが、気分が悪く胸が「ムカムカする」ほうだと観ていて気付いた。
「ビビリ(Fear)」は脅えることでライリーがその対象に近寄らない、その行為をしたくない気持ちにさせる。「ムカムカ」はライリーを嫌なことから遠ざけ、「ビビリ」は危険や恐怖からライリーを守っている。
似ているようで違う。
ピーマンを放り出す幼いライリーの行動は、親から見れば困ったふるまいに見える。
だが、ライリーの感情にそって見ると、親が嫌がることをしたいわけではない。見たことがない食べ物であるピーマンを前に「ムカムカ」が警戒する。ピーマンだとわかると、ライリーが嫌な目にあわないようはねのけて、ライリーの心と体を守る。
「ムカムカ」は「命を救った」と誇らしげだ。
イヤイヤは、ただのイヤイヤではない。
傍から見たらどうであろうとも、感情たちはライリーを守っている。
「イカリ」は二次感情だと私は思う。
私は「怒り」は二次感情だという考えを支持しているので、「イカリ」については違和感を覚えた。感情を爆発させることでライリーを守っているのだろうが、その原因がどうも薄い。
さきほどのピーマンの場面を見てみよう。
父親がピーマンを食べないと「デザートはなし」だという。それを受けてライリーのなかの「イカリ」が駆け引きをするのかと爆発する。
おそらくライリーとしては嫌な気持ちになる食べ物から自分を守ったという正当な理由があるのに、それに対して楽しみなデザートを取り上げる父親の理不尽さ、自分の正しい行為をないがしろにされた、自分を軽く扱われた悲しみが高まる。そのことを父親に主張するために、自分を守るために感情を爆発させるのだと思う。
そうなると、たとえばいきなり怒るのではなく、「カナシミ」が泣いて泣いてその涙が集まって「ひどい」と訴えだし、次第に赤く燃え、怒りに変化していくという流れのほうが自然に感じる。
ただ怒るたびに「イカリ」に変化するまでの過程を逐一描いていると、ストーリーのテンポが悪くなってしまうので、映画に対してそれを望んでいるわけではない。
この映画のなかでは、「イカリ」はボンッとすぐ燃えるヤツでいい。
引っ越しを機にライリーの揺れる感情たち。
11歳になったライリーは、生まれ育ったアメリカの田舎町ミネソタから大都会サンフランシスコに引っ越す。新居はライリーが思い描いていたものと違い、気分が沈む。その上、荷物が届かないなどのトラブルが続き、家族全員、新しい暮らしのスタートを明るく楽しく切れなかった。
翌日の転校初日。
ライリーは学校でも挨拶をはじめ、新しいクラスに馴染むのにつまずいてしまう。
ライリーのなかでは「ヨロコビ」が頑張っていたが、「カナシミ」がそれを悲しみに染めてしまい、「ヨロコビ」と「カナシミ」が揉めて、結果司令部から放出されてしまう。
「ヨロコビ」と「カナシミ」が不在のまま、夜を迎える。
家族3人での食卓を「イカリ」「ムカムカ」「ビビリ」がなんとか乗り切ろうとするが、ぎこちない態度になってしまう。
擬人化した感情があるのはライリーだけではない。
両親のなかにも司令部があり、「ヨロコビ」たちがいる。母親のなかの感情たちがいつもと違うライリーに気付き、「探ってみましょう」と相談する。気付かれないよう、こっそりとライリーに問う。
「学校? まあまあかな。わかんないけど」
ライリーの言葉は素っ気ない。
問い掛けに答えなければならない面倒くささなのか、学校でのことを思い出して悲しくなったのか、しくじったことを隠したいのか。その表情は実に複雑かつ見事で、思わずノコ(娘小5)を彷彿とさせる。
母親の司令部ではそんなライリーを「あんな態度とったことない」と驚き、夫に様子を探るように合図する。だが、夫は上の空で――夫の感情たちはサッカー観戦をしている!――妻の何度目かの合図に気付いたものの、意図を読み取れない。
もうこのあたりのやりとりは秀逸で、世界共通なのかと苦笑してしまう。
夫はライリーの憮然とした面持ちに「そんな態度はよくない」といい、注意という雷を落とす厳戒態勢に入る。
「放っておいてよ!」
ライリーはそういい放ったものの、「だって、私、私」とまだ何かいいたそうだが、いえない。ついに「もう黙っててよ」といってしまい、生意気で反抗的だと父親の雷が落ちる。
「もういい、部屋に行きなさい」
父親に告げられ、荒々しい足音を立てて階段を上っていくライリー。
父親の司令部では「最悪な事態は避けられた」と感情たちが喜んでいるが、母親の感情たちは「ホント最悪」と遠い目をして現実逃避をしている。
うまいんだよ!
いや、うまいなぁ。
もちろんこの先のストーリーもおもしろいのだが、出だしからこれで思わず唸ってしまった。
感情を擬人化したようだが、「ヨロコビ」は見ているとどうやら100%「喜び」でできているわけではない。ライリーを「幸せ」な気持ちにさせるのが仕事といったほうがいい。
「ヨロコビ」だって、ときに嘆いたり落ち込んだりもする。
それぞれの感情が100%その感情だけであれば、ライリーを幸せにするために感情同士が協力することはできない。
感情たちは「そういう気持ちにさせる」のが役目であり、そういう気持ちにさせるための要因を見付けるのがそれぞれうまい。
「ヨロコビ」は喜びをすぐ見付けるし、「カナシミ」はその心に寄り添える。
「イカリ」はライリーを害する理不尽なことに敏感で、「ムカムカ」は嫌なものに気付き、「ビビリ」は危険を察知する。
映画を観ていると、ライリーがライリーとして判断しているのではなく、感情たちの反応で毎日を乗り切っているように感じる。だが、確かに自分がしたことなのに、感情に振りまわされた気がすることは私自身にもある。
頭のなかの司令部で感情たちが私を守るためにワアワアやっているといわれたほうがむしろ説得力がある。
「ライリーらしさ」――「その人らしさ」は、どこにあるのか。
ライリーらしさはさまざまな思い出、記憶をもとに育っていく。
映画では「信念の泉」に放たれた思い出や記憶が紡がれ、「ジブンラシサの花」となる。
感情たちはそこに「ライリーらしさ」を見出し、大切に見守っている。ライリーを支えているのは確かに感情たちだが、直接「ライリーらしさ」を作っているわけではない。
ときに感情に振りまわされていると感じることもあるが、そこには生きてきた時間分の記憶や思い出がある。それらが「その人らしさ」構成しているとするこの映画はやっぱりうまい。
ちょっくら、52年分の思い出を振り返ってしまった。
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