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区別と差別とえこひいきと。

#20230725-177

2023年7月25日(火)
 習い事のレッスンを終え、スタジオのドアから子どもたちが押し合うように飛び出してくる。
 女子たちが素早く目配せをし、小さくうなずきあっている。ラウンジで待機していた母親たちもいつもと違う空気を察し、こちらもこちらでチラリと視線を交わし合う。
 ーー何かあった??

 子どもたちはお菓子を出して、食べはじめる。
 新型コロナウイルスの影響が強かった春先までは、ラウンジでの居残りは禁止されていた。それが感染症法上の位置づけが5類感染症に移行したため、解禁。子どもたちにとっては楽しいひとときとなっている。お菓子を交換し、わいわいとひとしきり騒ぐ。

 控え室から講師のひとりが出てきた。
 子どもたちがワッと立ち上がり、通路の先にその講師を連れていく。
 ちょうど親たちから死角になっている。私はそっと立ち上がると、角の向こうを覗きこんだ。
 子どもたちがその講師を取り囲んでいた。ノコ(娘小4)もその輪に加わっている。
 静かに母親たちのところへ戻り、眉間にしわを寄せて首を傾げると、母親たちも苦笑を浮かべた。
 ーー何かあったね。

 ややして子どもたちがラウンジに戻ってきた。講師にいいたいことをぶつけた解放感からか、こちらから問わなくとも口々に喋りだした。
 ワアグワアアワア!
 一斉に口を開くものだから、もう音の集合体にしか聞こえない。
 「待って! ひとりずつ話して!」
 ある母親がそういうと、いいか悪いか学校教育の成果か、今度は一斉に挙手しだした。
 「はい!」「はい!」「はい!」
 子どもたちの話によると、先のレッスンの講師のやり方が気に入らないということだった。前任の講師のように子どもたちの意見を取り入れてくれず、ただ講師のいう通りに子どもたちを動かそうとするらしい。
 「全然楽しくない!」
 ひとりがそういえば、皆一斉に「最低!」「最悪!」「もーヤダ!」とさえずる。いや、吠える。

 また、同じようにやっても褒められる子もいれば、注意されてやり直しを指示される子もいるという。
 「ひどくないー!」
 「ひどいよね!」
 「ズルイよ!」
 立ち上がって、憤慨するのはノコだ。
 「あぁ、でもさぁー」
 皆がその一言に一瞬で口を閉じ、注目する。
 「○○ちゃんはいいよねぇ。好きじゃん。私なんて嫌いだよ」
 「いや、私、好きじゃないよ。嫌い嫌い!」
 「そういう意味じゃあなくてぇー、あの先生が○○ちゃんのことは好きじゃんっていってんの」
 「ええええ、嫌いだよ。先生だって、私のこと嫌ってる」
 「絶対、好きだって。○○ちゃんのときは何もいわないし」
 どうやらその講師に"嫌われている"方がここでは好ましいようだ。
 先程取り囲んでいた講師が不満なのではなく、その講師にいかにひどいのか、講師を変更できないのか訴えていたようだ。 
 「今期の変更はないってさ」
 「最低ぇー」
 「ホーント、あの人、区別するよねぇ」
 先生と呼んでいたのに、いつのまにか"あの人"になっている。

 というか!
 "区別"という言葉が耳に飛び込んできてビックリする。
 ノコもよく学校での不満を口にする際に"区別"という。
 文脈からして私は"差別"が適切だと思うのだが、"区別"を使う。
 この習い事に通う子どもは広域で、ノコもそうだが電車利用も多い。"区別"というのは、ノコ個人の言葉選びの癖なのか、もしくはノコの学校ではそういう使い方をする子が多いのかと思っていたが、そうではないようだ。

 この子とあの子を違うものとして扱うだけならば"区別"だろうが、そこに優劣や好みなどの差をつけて扱うのなら"差別"だろう。
 どう見ても、子どもたちは講師が個々の違いを認めているのだと肯定的に受け取っていない。「ずるい」「ひどい」といっていることから、そこに講師のなかでの差を感じている。誰も口にしなかったが"えこひいき"というやつだ。
 "差別"といわず、"区別"という子どもたち。
 これは単に語彙の少なさによるものなのか。それとも、現在、学校教育をはじめ、子どもたちが触れる世界では"差別"という言葉を意図的に避けているのだろうか。最新のTVテレビや本、漫画などに登場しないのだろうか。

 「区別するよねー」
 そういいあう子どもたちの言語感覚に私は居心地の悪さを感じてしまう。
 "差別"だから、それ!と思わず叫びたくなる。

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