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ダイバーシティの欺瞞

さっき読み終わった本はエドワード・ルトワック氏(奥山真司訳)の「日本4.0」である。
この本には、噂で聞くところによると、訳者が戦略家としての権威である著者の名前を使って都合良く書いたのではないか?という説もあるらしい。
当然、真偽の程は確かではない。
まぁ、内容的にも結構稚拙な部分が散見される(特殊部隊の問題点解決の現状とか情報職員との混同とか…)ので、さもありなん、と思ってしまうのである。
あとは、日本の戦略のあるべき姿を述べるのに、ナポレオンやクラウゼヴィッツを引用しているが、孫子への言及がないことも残念である。
個人的には、人類の安全保障戦略は未だに孫子の掌の上を抜けられていない、と考えている。
後は、AIに関する認識は明らかに甘いと言えよう。
ただ、AIの発展はここ数年で極めて著しいので、致し方ない部分はあるが…

さて、いつものごとく読んでた本とは関係のない話題である。
昨今、ダイバーシティと叫ばれて久しい。
ダイバーシティとは、簡単に言えば多様性であり、多様な価値観を認めなさい、ということである。
これ自体は私も良いと思っている。
ただし、これが言葉の通りに適用されるならば、の話である。
私は公言している通り、スペシャリストではなくジェネラリストである。
勿論、ある程度専門に近い偏りがあるのは私の他の記事を見て頂いてもご理解頂けると思うが、基本的には広く浅くとなる。
勿論、全分野網羅できる様なスーパーマンでもない。
とすると、ジェネラリストの生きる道というものは、スペシャリストの能力を最大限活用すること、特に違う領域のスペシャリストをマッチングさせて、その相乗効果でイノベーションを起こすこと、ということになる。
とすると、ジェネラリストからしたら、多種多様なスペシャリストが色んな分野に育ってもらえることが、自分自身の活躍の場の拡張にもなり有利なのである。
とすると、私はダイバーシティ賛成派なのかと言うと、単純にそうも言い切れない。
と言うのも、このダイバーシティという用語が既に字義通りの多様性というものから変質し始めているからである。
具体的に述べていこう。
ダイバーシティや多様性と聞いて何をイメージするだろうか?
女性活躍?障碍者雇用?LGBT?人種民族差別撤廃?
確かに聞こえは良いものである。
所謂ポリコレの文脈で使われる用語であり、確かに多様な人材が活躍できる状態は良い事なのだろう。
もし、差別的な待遇で力を発揮できない人がいるのであれば、それは不適切であると言える。
ただ、ここでひとつ問題が起こってくる。
多様性を尊重するのであれば、全ての属性が尊重されるべきであろう。
しかしながら、多様性と言いながら、例えば男性であったり、保守主義者であったり、マジョリティ一般には多様性の恩恵は与えられず、「多様性ある人々」の搾取の対象とされることである。
確かに、多様性だからといって差別主義の多様性を認めると話がややこしくなる。
ジレンマの代表例として語られる様に、差別をする自由を認めたら、その人達に差別された人の自由は無くなるのではないか?という矛盾である。
これについては、社会の自由度を最大化するために、それに反するものについては一定の制約をかけましょう、という論理で処理されている。
一方、ポリコレの文脈においては、その論理が濫用(乱用)されているのである。
つまり、今まで差別されていた女性や障碍者やLGBTや被差別人種民族、加えて左翼思想を優遇するためには、男性や保守主義者やマジョリティの人権は侵害しても良い、と言いたげなのがポリコレの実情である。
例えば、BLACK LIVES MATTERは許されてALL  LIVES MATTERは許されないのである。
彼らの論理では、迫害されてきた(現在も差別を受けている)黒人の被害を薄めるような思想は認められない、というものである。
これはおかしな話である。
差別の解消が目的であれば、黒人も含めた全ての人権(直訳すると生活や生命となろうが)は大事なはずなのである。
しかし、実際に黒人がBLACK LIVES MATTERでやったことは、白人(や黄色人種)の店舗から強奪をしたり、レイプしたり、暴行したり、殺人をしたりしたのである。
全ての人の人権が大事なのであれば、これらの悪行は当然非難され糾弾され裁かれないといけないはずである。
しかし、黒人の人権のみが大事、とすることで、こうした至極当たり前の批判から逃げ隠れしているのである。
現代のフェミニストの横暴については他の記事でも書いている通りであるし、LGBTについても述べたことがある。
障碍者については、社民党関係者等の障碍者が我儘を言って、暴れ回って、迷惑をかけて、逆に真っ当な障碍者の方々の肩身を狭くした事例は幾つもある。
まぁ、某五体不満足の人の下半身事情は個人の問題だとは思うが、彼も地味に何度かやらかしてたはずである。
他の記事でも述べたが、障碍者としてグルーピングして特別扱いするのではなく、出来ないことは周りの人間がサポートして、障碍のある当人は自分にできることで他の人や社会に貢献する、という態度が必要であるし、受けたサポートに対しては感謝することは当然である。
そんなもん、所謂健常者であっても、他者から親切にされれば当然のように感謝をするのである。
別に障碍者は特権階級ではないのである。
さて、各論的な批判になっているが、一番の大きな問題を最後に述べる。
それは、画一的な多様性の強制がポリコレによってなされているということである。
某共産主義政党の幹部がこう言った。
「これからの社会は統制された多様性が大切である。」
つまり、左翼が決めた多様性のあるべき姿から外れる存在は、多様性として認められない、ということである。
当然、保守的な考え方も許されないし、特定の職業の男性割合が多いことも許されないし、専業主婦をしたくても許されない。(その割には専業主夫は許されないのだが…)
また、大学生だったり管理職だったり政治家だったりは、決められた割合で多様性を達成することが求められるのである。
個々人の適性や意志といった真の多様性を完全に無視して、性別(特に社会的性別)や人種民族等のラベリングしたものを基準として、一定の割合で捻じ込む、統一した多様性を実現しようとしているのである。
アメリカの例でいうと、映画などの出演者についても、ポリコレに基づいた人種割合で出演者を選ばなければならない、下手したら制作スタッフにまでそれが適用されるのである。
その割には、日本人役の配役に中国人を起用するなど、極めて杜撰なやり方をしているのだが…
近い話だと、日本のドラマ(映画?)で性的少数者の役は普通の男女の役者ではなく、性的少数者の役者にやらせるべきだ!という主張もあった。
その論理であれば、その性的少数者の役者は性的少数者の役しかできなくなるはずだが…
人材の多様性がイノベーションをもたらす!という主張には一理あるとは思う。
しかし、その多様性は個々人に求められるものであり、ラベリングされた属性を取り揃えればイノベーションにつながる訳では決してない。
多様な個々人を集めた結果、特定の手法によるラベリングでは偶々そのラベルが一致した、なんてことは良くある話なのである。
そして、ラベルが偶々一致したことをもってイノベーションが起きにくくなる、だなんてのはそれこそ暴論なのである。
統一された多様性とあるべき多様性を表した分かりやすい画像が作られている。

どこでも画一的に多様性を実現しようとするのではなく、偏りはあっても構わないので全体として多様性を実現していきましょう、というのが多様性のあるべき姿ではないだろうか?

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