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何故トランス女性は女性競技に出たがるのか?

さて、とあるリベラルっぽい人と論争になったので一筆書いてみようと思います。
まず、私はそもそもヒューマニストと言うべき、男女分け隔てなく平等対等公平公正にするべきという論者です。
その視点から見ると、スポーツで男女を分けた競技をするのは、実はナンセンスだということになります。
フェミニストがよく主張する、女性が女性枠に押し込められているから男がデカイ顔できているんだ!という主張は、男女別にしない無差別級の枠組みでやればその真偽が簡単に判明します。
事実として、プロとかのトップレベルで、身体能力は明らかに男性の方が上ですので、もしも無差別級でやれば、女性選手は誰一人プロとして活躍する機会を与えられないことになります。
そうなると、不公平でもありますし、裾野も広がらないということで、男性を排除した女性競技を併設することになった、というのが実態です。
そりゃあ、男性の素人と女性のプロを比べれば、当然女性のプロの方がレベルが高いですが、プロというのはトップ同士の戦いなので、そんな比較はしても仕方がありません。
一般男性で吉田沙織に勝てる人はまずいませんが、そんな吉田沙織ですら、男性の練習相手は精々大学生レベルになるそうです。(女性同士だと練習にならないからだそうですが…)
女子サッカーの日本代表も、男子高校生と練習試合してボコボコにされたなんて話もあります。
余談ですが、知人の女の子は高校時代からプロに混じって練習してましたが(ユースではなく正規チームでやってたそうです)、「私なら高卒でプロ入りできたけど、サッカーの女子プロは食ってけないから行かなかった。私は頭もいいから大学に行った。」と言っていました。
その子は結構いい所の公立大学の理系で院まで進み、就活は第一志望を一発で受かるという文武両道の才女でした。
コミュ力も高くて顔も可愛いので、天は何物も与えるんだなぁ…とか思ってました。
閑話休題、多くの女性競技は男性競技より人気が無いというのが事実です。
単純に競技レベルが低いから、というのが一般的な認識です。
昔、女性競技者が男性競技者との給与格差があるのは女性差別だ!とか言って給与の引き上げを求めたことがありましたが、たちまち採算が合わなくなって破綻したそうです。
商業的価値を確保できなかったのだから仕方がないですね。
商業的価値と言えば、ビーチバレーはルールでビキニが義務付けられているのですが(最近はイスラム教徒とかは肌を隠すのがOKになってた気もしますが)、それを差別だと反対して露出度を減らしたそうです。
したら、競技の人気が爆下がりして成り立たなくなって、ビキニ規定が復活したそうです。
まぁ、男としては気持ちは分かります。
一方で、女子ゴルフは男子ゴルフと比較して収入はむしろ女子の方が多いそうです。
こちらはプレーの質がそこまで男女で変わらない上に、健康的な女性のプレーが見れるということで人気を得ているのかもしれません。
また、一部には男女分け隔てなくやっている競技もあります。
代表例が馬術です。
オリンピック種目で唯一男女別になっていない種目だそうです。
これは、筋力とかの分担は馬がやってくれるので、むしろ選手は体重が軽い女性の方がやや有利になるからだそうです。
同じ理屈の競馬の他にも、モータースポーツなんかも女性選手が男性選手に混じって競技をしていますので、一流になれば筋力的なもの以外では男女対等に勝負になると言えるでしょう。
将棋とかでは、プロ棋士は未だに女性はいませんが、これは裾野の問題の方が大きいのかとは思っています。
もっとも、この手の知能競技も体力的な優劣は結構影響するとは聞きますが…

さて、実はここまで長めの前置きになります。
そう、今回論争になったのはフェミニストというよりはリベラルの人なのです。
その人とは、女性競技を男性競技と分離したのは、埋め難い男女の身体能力差によるものだ、という所までは合意ができました。
タイトルの通り、問題はトランス女性の女性競技への参加問題です。
私は本来的には男女問わない無差別級でスポーツをすべきという考え方ですが、女性競技者の名誉を守って女性にもスポーツの裾野を広げるべきだという考えには一理あると思いますので、女性競技の価値は否定するものではありません。
で、問題になるのは、身体的男性であるにも関わらず、女性を自認すると主張して女性競技に殴り込みをかける人が最近出始めたことです。
ウエイトリフティングではぶっちぎり、陸上競技では上位総なめ、ラグビーなどのコンタクトスポーツでは女性選手が生命の危機を感じるほどの身体能力差があったそうです。
この状態で女性選手はモチベーションを保ってプレイできるのでしょうか?
しかも、女子競技で無双しているトランス女性は、男性選手だった頃は二流選手と呼べる位置にいた人物が多数です。
もしくは、既にピークアウトした選手もいます。
そもそもの女子競技の趣旨に立ち返ってみましょう。
身体的男性は運動機能が身体的女性よりも、少なくともトップ層において明確に高いのであるから、男女で競技を分けることによって身体的女性も一流の名誉のもとにスポーツをプレイできるようにしよう、というものであったはずです。
その趣旨から考えて、たとえ性自認なるものを認めたとしても(なお、私は性自認という概念自体に否定的であるが)、身体的性差を理由に区分したものを、自認の性別でひっくり返されるとなると本末転倒である。
例えば、テストステロン(男性ホルモン)値で規制をかけるという案もある。
しかし、男性競技者の間に徹底的に体を作り込んでからホルモン治療を行えば、男性競技者の身体能力をほぼ完全に備えた女性競技者の出来上がりである。
そんな状況がフェアと呼べるのだろうか?
そうするならば、むしろ女性競技者はテストステロンのドーピングを許可した方が、よっぽど公平である。
それがスポーツ倫理的にダメなのだと言うのならば、ナチュラルドーピングとも言えるトランス女性の女性競技への参加が許されることに倫理的な問題点は無いのだろうか?
トランス女性の競技参加の権利を奪うべきではない、という論もある。
これは問題がない。
身体的男性の競技に身体的男性であるトランス女性も出られる様にすればいいだけであるし、恐らく現状出られるのである。
単に、男性競技者として格落ちの選手であるから表舞台に出られないだけなのである。
また、現状、身体的にも法的にも性転換済みの選手しか出られないという状態のはずだが、現在の傾向として自認だけでトランスジェンダーを自認の性で承認しろ!という主張も増えている。
とすると、ただの自称女性の身体的男性が大手を振って女性競技を蹂躙できる様になる。
逆のトランス男性は男性競技に出ないのか?という話は、そもそも身体能力的に話にならないから、俎上にも上がらないというオチである。
トランス女性と女性の両方を守るために、女性競技とは別にトランス女性競技を作っては?というアイデアもあるかもしれない。
しかし、そもそも競技人口をカバーできるのか?
需要はあるのか?(男性競技より低レベルで、ビジュアルの汚い選手の競技をどの層が見るのだろうか?)
そもそも当事者はそれに出るのか?(単に身体女性相手に無双モードをやりたいだけではないのか?)
ということを考えていくと、やはりそのアイデアも現実的とは言えないだろう。

ということで結論は、「性自認とか関係なしに、身体的性別で出場競技を決めるべき」という至極当たり前の話でした。

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