金剛

私の撮った一枚の写真と、その背景を綴ります。30秒くらいで読めます。

金剛

私の撮った一枚の写真と、その背景を綴ります。30秒くらいで読めます。

最近の記事

「刻みしは 蛙の寝言か 人の世か 灯す光は 何をば惑わす」  人の寝静まったころには、カエルの声と、時を刻む音だけが木霊するが、果たしてこのような夜更けに、時計は何を刻んでいるのか。  私の部屋の明かりを月と見まごうてか、一匹の虫が飛んできた。

「刻みしは 蛙の寝言か 人の世か 灯す光は 何をば惑わす」  人の寝静まったころには、カエルの声と、時を刻む音だけが木霊するが、果たしてこのような夜更けに、時計は何を刻んでいるのか。  私の部屋の明かりを月と見まごうてか、一匹の虫が飛んできた。

    かつ丼を喰らう女(約3400文字)

     昼飯の時間がやってきた。教授の話に強く関心を寄せない生徒は、得てして後ろの方に着席する。彼女は、後ろから三列目の、最もドアに近い席にいたのだが、その訳は、彼らのような楽観な学生のそれとは大きく隔たる。  教材を手持ちバッグにしまう彼女は、前の方にいる友人を見ていた。三人でお喋りをしており、普段であれば、自身を加えた四人になる。  彼女は、春のつくしのごとく生えた生徒の後頭部の影を縫って、誰の意識に触れることもなく去っていく。大学内の廊下は、綺麗なグレーの光沢をかすかに輝かせ

    かつ丼を喰らう女(約3400文字)

    枝が曲がった理由は、ひねくれものだったから

     進化論というのがある。生物は、その環境に適応した個体が種を残していった結果、例えばキリンのように首が長くなったりする、というものだが、果たしてこの植物は、この定説からすると、どう推して考えることができるか。  現実的な線で行くと、多種多様な植物がその四肢を無縁慮に広げるうっそうとした森の中、その厄介者をかいくぐる強者たちにのみ、種を落とす命が与えられ続けた、というところか。  しかし、私にはこの手の現実的な推測は合わない。よって、奇天烈な案を出してみる。  この木はかなり

    枝が曲がった理由は、ひねくれものだったから

    犬になりたい理由

     犬になりたい。犬ってのは、楽に生きていける。もちろん、その飼い主次第というのはあるけれど、それは人間だって同じだ。親次第だ。だから、そんなことを議論するつもりはない。  まず、あれだ。余計なことを考えなくていい。  おおよその人間は、ただ飯にありつけると聞くと喜ぶ。が、それが何週間、何か月続くと、少なからず後ろめたい感情を抱くものだ。何もしていないのに、本当にいいのだろうか。相手にとって、負担にはなっていなかろうか。罪悪感というやつかもしれない。しかし、犬にはそれがない。目

    犬になりたい理由

    天を望む、竹だったもの

    天を望む、竹だったもの

    参道のタケノコ

    参道のタケノコ

    ドクダミの探求心

    ドクダミの探求心

    神社の一画

    神社の一画

    神社の土産は、奇妙な布マスク

     神社は好きだが、神社巡りは好きではない。おそらく心が必要としたときに、自然と導かれるものだと、私は考える。  この神社に訪れ、捨てられた「布マスク」を拾うまでの経緯を、お話ししようと思う。(約3700文字)  実家の近くに、なじみの川がある。2級河川というから、それなりの大きさと想像してほしい。  小学校に通う6年間、通学する毎日、登校と下校と、2回その川にかかった橋を渡る。  22の歳になった今、ようやくその川を下ってみようと思い立った。現代人からしたら川というのは、渡

    神社の土産は、奇妙な布マスク

    一輪の花を携えて、彼女の元へ

     名前の知らない小鳥が、花をじっと見ていた。小鳥なのだから、その花もやはり小さい。タンポポだ。人間の子供というのも、タンポポが好きだろうが、かくいう私は、今でも好きだ。   多くの鳥は、小枝や泥を集める。他でもなく、巣作りのためだ。しかし、タンポポの、しかも、その花をついばむというのは理解できない。  やはり、あれだろうか。人間も小鳥も、生活は違えど住む世界は同じだ。一輪の花を携えてあの人、いや、あの鳥のもとにゆくというのなら、これ以上のお邪魔はしないさ。健闘を祈るとしよう。

    一輪の花を携えて、彼女の元へ

    苔むす小川

     たまには、地図を持たずに歩いてみるのもいい。目的地はいらない。用事も必要ない。目に留まった何かを、追いかけるように歩を進めるのがいい。    さすがに足が疲れてきた。どうやら現代人のその足は、あまり歩くに適さないらしい。ふと、さらさらとした振動を、耳が拾った。実際に聞こえたのか、心が感じ取ったのかはわからないが、その正体の水というのは、やはり必要だと本能が訴えるのだろう。  都会ではまずお目にかかれない。コンクリートの側溝を流される雨水ではない、生態系として流れる水だ。  

    苔むす小川

    全盛期の過ぎた桜

     私はこれを、桜として撮ったのではない。  花見の季節はとっくに幕を閉じたが、せっかく写真があるのだから、ここに日記としたい。  当時、花見をしに来た身分であるのになんだが、美しく整った桜に飽き飽きしていた。桜は、大勢の人々を魅了し、その足元に屈服させた。彼らは拝み、ほめたたえた。まあ、中には、桜を見に来たのか、桜は背景に宿した自分を、画面越しに見に来たのかわからないのもいたが。  しかし、この桜は美しかった。適当なつる植物にいいように巻き付かれ、樹皮の割れ目を実効支配する

    全盛期の過ぎた桜

    影によって描かれる、鮮やかな情景

     影というのは、時折、より鮮明な情景を想起させる。  当時、これを撮った私の目には、もっと鮮やかな色彩が見えていた。夕日に照らされているとはいえ、砂浜には白色が見えたし、草にも、具体定な橙があった。ただ、これがカメラの気難しいところだろう。夕日も、人も、情景もなどと、欲張りはさせてくれない。満足げに画面を見てみたら、茶色っぽい地面と、すこしの水と、燃え滾る夕日と、二つの黒塗り。飼い犬にかすかな色味が許されたのは、この際、幸とみなすか否か。  しかし、ここで逆説的ではあるが、こ

    影によって描かれる、鮮やかな情景