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神社の土産は、奇妙な布マスク

 神社は好きだが、神社巡りは好きではない。おそらく心が必要としたときに、自然と導かれるものだと、私は考える。
 この神社に訪れ、捨てられた「布マスク」を拾うまでの経緯を、お話ししようと思う。(約3700文字)


 実家の近くに、なじみの川がある。2級河川というから、それなりの大きさと想像してほしい。
 小学校に通う6年間、通学する毎日、登校と下校と、2回その川にかかった橋を渡る。
 22の歳になった今、ようやくその川を下ってみようと思い立った。現代人からしたら川というのは、渡るものなのだろう。かかった橋を渡るのである。そこに流れる、どこからともなくやってくる水に並走するというのは、あまりの暇人でもなければしない。少し寂しく感じる。
 

 川というのは、場所によっては下りられる。川それ自体に親しんでもらおうという、市なり県なりの計らいなのだろう。これに接近する人間がどれだけいるのかはわからないが、幼少期から自然となれ合ってきた私には、喜ばしい限りだ。
 川というのは、その流水の奏でる音以外も楽しめる。人間の生活の匂いというのも、その街を流れる水に溶け込む。ここいらはどうやら、うむ、よくやっているらしい。ときたま、よそ見をした虫が顔をかすめる。随分なご挨拶だ。ご近所づきあいはよくやっていきたい。ちなみにこの川は、手前から奥へと流れている。コンクリートがなくなったとたんに、植物が生い茂る。これでは無法地帯ではないか。

 私としては、このまま先に進みたいのだが、おいそれと許してはくれない。ここは、我々が占拠した。
 仕方がないので、階段を上ることにした。薄れゆく川の匂いに、少しばかりの名残惜しさを感じる。

 上から見るとこんな感じだ。左側にチガヤが整列している。違うのも交じっている。不思議と右側には、彼らの姿はあまり見られない。この葉の大きいのは、たしかドクダミというやつか。茎を折って、皮を向いてかじってみると、少し酸っぱい。昔、この川沿いに生えているのも食った。学校の帰り道だった。何のしょんべんやらがかかっているかもしれないのに、よくやったものだと懐古する。あの頃生えていた奴らはもういないだろう。今はきっと、新入りの奴らだけだ。
 奥に広がっている雑木林に、期待を膨らませる。雑木林と川というのは、相性がいい。それが自然というものなのだから、良しもあしもないのだが、古来からの合言葉に「山川」というのがある。山といったら川、というのはいつの世も変わらない。
 この道を、いちいち立ち止まって川をのぞいたり、スマホで草の名前を調べながら歩いていた姿は、近隣住民からしたらさぞ怪しく見えたことだろうと、今になって反省するが、またどこかで繰り返すことと思う。
 このまましばらく、道に従っていくつもりだった。しかし、例に漏れず、市やら県やらは、やはり川と触れ合ってもらいたいらしい。

 このようなたいそうな道を用意されては、無視するわけにはいかないというのが、好き者の性だろう。私は夢をあきらめ、文字通り道を踏み外すことにした。断腸の思いだ。
 口惜しさと新たなる期待を抱いて、階段を降りることとした。

 ここでもう一本、腸を断たなければならなくなった。
 遠目では実感がわかなかったが、いかんせん、足場の感覚が大きい。これは一体、どこのだれを想定して設計したものなのか、問い詰めてやりたい。志半ばで踵を返した同胞たちの無念を、ここに感じた気がした。だが、私はやる。これを目前にして、かれこれ3分くらい葛藤しただろう。意を決して跳ぶことにした。清水から飛び降りることを考えれば、このくらいなんともない。スマホと、財布の墓くらい掘ってやる。身分証はきっと防水だろう。
 さて、第一歩。跳んだ。なんとも情けない踏みだしだった。高校時代の私が見たら、きっと笑ってくれるはずだ。とはいえ結果はどうかというと、案外成功したのであった。きっとアメリカ人が踏み外したら、裁判を起こすに違いない。
 覚悟が決まったのか、二歩目三歩目と、すいすいと出た。

 私はこの光景を、近年まれにみる達成感でもって写真に収めた。
 喉元過ぎれば熱さ忘れる。この高揚感というのは、残念なほどにあっけなく、すっと抜け去ってしまうものだ。その上かすかに、喪失感まであるではないか。ああ、あの情熱はどこへ。
 何はともあれ、先へ進むことにする。旅とはそういうものだ。
 道は一本しかない。先ほど見た雑木林は、いつしか目前に迫った。ここにつながっていたのか。アニメや小説で伏線を回収されたような胸の高まりを感じたのは、気のせいではなかろう。
 時に、一本立派な竹を見た。竹とは言っても、葉はもうなかったので、竹を証明するすべは残されていない。

 もはや光合成はかなわず、日光を浴びる必要はないだろうに、ただ愚直に、遺伝子に従って太陽の方へ伸びている。こういう図太い奴を見ると、少なからず勇気が湧く。
 以降しばしの間、これと言って発見はなかった。しいて挙げれば、道路沿いの小川をはさんだ向こう側に、何件かの民家があった。家を出る度、小川にかかる橋を渡る必要があるし、夏は特に虫が多かろう。まあ、人様のお宅だ、部外者の出る幕はない。
 さて、しばらく例の小川に沿って歩いていると、知らない神社の標識が目に留まった。

 この入口からして、いい味を醸し出している。道は少し右へと傾いている。きっとこの雑木林の中に、ポツンと本殿があるのだろう。そういう所は性に合う。いざ、参らん。
 神社と言えば、まずはこれだろう。この砂利の上を歩かないことには始まらない。ところで、コンクリート以外の道を歩く機会というものは、得てして少ないというのは、私に限った話ではないと思う。
 竹も生えていた。また竹か、と思う。今日は竹の日なのだろう。
 特段立派なものではないが、誰もが目を見張るものだった。先ほどの竹とは、その図太さという面において中々に張り合っている。

 どうしてこうも、道の真ん中から芽を出してしまうのだろう。竹というのは、地中の根でつながっているため、仕方ないと言えばそうなのだが、氏神様の土地なのだから、もう少し節度を持っても罰は当たらないと思うが如何。
 それはそれとして、私は先に行くことにした。ここの参道は、なかなか楽しませてくれた。隣の茂みで、常に何かがうごめいている。一人山奥に放されたかのような気にすらなった。

 果たしてその正体は、ほんの一瞬捉えることがかなった。なんてことはない、鳥だ。ただこの鳥、雀でも鳩でもカラスでも、普段目にするどの鳥にも似ていなかった。茶色でずんぐりしていて、鳩よりも小柄か。足は速かった。
 話を戻そう。この参道、我々に中々の試練をお与えになる。これを知っていたならば、あるいは参拝しなかったかもしれない。

 これを苦行ととらえるか、当然の礼儀ととらえるか、それは難しいところだが、私は、努めて礼儀とした。内容はさて置いて、神頼みしようというのであるから、これくらいの努力は当然遂行すべきだ、ということにしておこう。
 それにしても、この階段を飾るシダ植物の情緒たるやこの上ない。空気も澄んでいる。これは、神社だからそのような気がする、というのでは決してなく、木々が作り出す新鮮な空気を、階段を上り爽やかな疲労を負ったこの体が、健康的に求めているということなのだろう。
 いつの間にか、本殿は頭上に現れていた。

 この時私は、失敬ではあるが、このような雑木林に隠された神社にしてはよく手入れがされているなと思った。
 日の当たらない階段を上り続けた結果、まぶしく天を仰ぎ見ることができるというのも、また気分のいいものだ。
 今更ではあるが、この神社は、学問の神様がおいでになるらしかった。本殿の傍に置かれた説明では、他に、家内安全と交通安全にも通じているというので、用は生活全般だ。
 さて、早速お賽銭を投げた。105円だ。特に意味はないが、5円では少ないし、100円玉もそこそこあったので、この額とした。
 願い事はというと、ここに記すようなことではない。そもそも、何を願ってよいかわからなかったので、きっと神様なのでから、このくらいのことは言葉にせずとも上手く本意を見抜いてくれるはずだという期待でもって、願い、もとい祈りとした。
 帰り際、神社に布マスクが落ちているのが見えた。はじめはそのまま見過ごそうかと思ったのだが、短い時間とは言え、この場所には世話になったし、神聖な場所にこのようなごみを放置するというのも、いささか忍びなかったので、そのまま耳にかけるゴムの端をつまみ上げて持ち帰ることにした。
 そもそも、わざわざ神社に布マスクを捨てていく人間がいようか。この布マスクが、かなりぼろぼろになっていたという訳もあり、台風だかなにかの強風が吹いて、ここにたどり着いたのではないかと思った。そう考えてみると、案外これも縁起物なのではないか。また、なんだかんだでこの場所にたどり着いたというのは、私も同じことなのであって、相手は人ではないが、妙な縁も感じる。

 私は奇妙な縁起物を担いで、神社を後にした。

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