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かつ丼を喰らう女(約3400文字)

 昼飯の時間がやってきた。教授の話に強く関心を寄せない生徒は、得てして後ろの方に着席する。彼女は、後ろから三列目の、最もドアに近い席にいたのだが、その訳は、彼らのような楽観な学生のそれとは大きく隔たる。
 教材を手持ちバッグにしまう彼女は、前の方にいる友人を見ていた。三人でお喋りをしており、普段であれば、自身を加えた四人になる。
 彼女は、春のつくしのごとく生えた生徒の後頭部の影を縫って、誰の意識に触れることもなく去っていく。大学内の廊下は、綺麗なグレーの光沢をかすかに輝かせ、その時代のある程度先端の技術を用いただろう名残を感じさせる。建築されて以降その廊下を踏み慣らしている、有象無象のひとりとなる。
 勢いそのまま棟を出て、真っ先に正門へ向かう。正門をくぐるたび、大きくそびえ立つ一本松を望むことになるのだが、今の彼女にとっては歴史も由緒も、等しくそこらを行き交う有象無象となんら区別ない。
 門を出て少しすると、微細な油を含んだ風が鼻孔を通り抜け、彼女の脳を刺激した。町中に漂う油の匂いというのは、多少不快ではある。海を越え、山を下る新鮮な風も、車や飲食店、住宅の混沌とした人間街を通り抜けるころには、なんとも言えない肌触りへと変貌する。
 しかし、こと彼女の求める昼飯を提供するあの店の匂いに関しては例外であろう。近づくにつれ、そのかすかな油の匂いには、肉をくぐらせた香ばしさが加わる。
 彼女は努めて冷静に、大学内から一切崩すことのなかった仏頂面を保ち、一件の定食屋を望む。
 目前にかかる濃い青の暖簾を、左の手の甲で軽く払うようによけ侵入する。地域のシニアたちがちらほらと座る店内に一人の女子大学生というのは、多少の違和感だろうか。だが、この方がかえって町の定食屋という実感も湧く。はた目からして荒れにあれた雑木林にも生命の根源たる川があり、まだ満足に光合成をできない芽も些細ではあれど、それでいて確実に存在してこそというものである。
 さて、女は此度、店内奥にあるキッチンスペースに近い席に陣取った。何を注文しようかとメニューを手に持ち、一通り眺めはしたがその実、常に意識されていたのはかつ丼唯ひとつ。女の席にはまだお冷は置かれていないが、店の人間にわざわざ先手を取らせるへまはしない。戦いというのはいつの世も、先手を取ることが何よりも肝要なのだ。
 女は軽く椅子を引いてキッチンにその顔を晒し、わざとらしく「あの、かつ丼一つお願いします」と、声を張った。キッチンで何やら作業をしていた料理人も手を止めてこちらを振り返り、「おお、あいよ」と返した。どこの誰が何を頼んだのか、きちりと店の人間に示さなければ注文とは言わない。これが彼女の礼儀と言わせるところだ。
 注文した料理が目の前に置かれるまでは何も考えず、何もしない。修行僧は、その身を風にさらしたまま姿勢を崩さず、ただ無に意識をとがらせるという。彼女の向こう、とは言っても店内の物理的なという意味ではなく、もっと精神的な意味合いでの向こう側に、そんな一人の僧侶が見えた。
 耳のすぐそば、物理的には目の前からなのだが、彼女の途方もない精神世界のはるか遠方から、硬いものを軽く響かせた音がこだましてきたのを、精神世界の意識として存在する彼女が認識した。いくらの時間こうしていたのかはわからない。いや、無に意識をとがらせるという行為に俗世を支配する時間というものを当てはめることは、もはや遂行しえないともいえる。
 彼女は目を開く。これまでも普通と同じく瞬きをしていたとしても、目の前の事象を認識し、意識を覚醒させるという意味では、入店してから初めて目を開いたのであった。
 果たして、彼女の目の前には、磨きをかけた砂金によって作り出された輝かしい大地と、その中央からひっそりと、しかし確かな存在感を作り出す一本の緑から形成される桃源郷が広がっていた。その大地には、白金の滑らかな小川も流れているらしかった。ああ、黄金と白というのは、どうしてこうも人を魅了するのだろうか。それを映し出す網膜には、確かに辺りのそう雑とした現実が映し出されているにも関わらず、彼女の脳はもはや、桃源郷以外の景色を打ち消してしまっていた。
 いつからそこにあったのか、結露したコップを手に持ち、小刻みに震えようとする己の手を抑え込んで口まで運ぶ。冷たい清流は、その欲望に塗られた沼の様な口腔を静かに洗い流す。すると、先ほどまでの桃源郷は幻覚であったのか、あるいは、今なお、その精神の中には確かに存在しているのかもわからないが、彼女の脳は現実の存在へと帰還した。
 ふと、「ああ、かつ丼を食べなければ」と思い立った。これはただそう思っただけなのか、なおも精神世界に潜む煩悩によるものなのか、どちらにせよ、彼女は米の上にのしかかるカツと、それに染み付い出汁と醤油と、それからみりんと酒と卵とをいっぺんに頬張った。その下から顔をのぞかせた米も続かせた。この期に及んではよもやこれを白米などと呼ぶ者はなかろう。白米というのは、茶碗によそわれた白く輝くコメのことを指すのであって、汁と卵とカツによって汚された白米は、もう白米を名乗ることは許されない。白くはないが、これのなんと輝かしいことか、筆舌に尽くすことはできない。
 頬張れるだけ頬張った彼女は、ひそかにカツそれ自体に思いを馳せる。豚肉というのは、普段からよく口にする食材であるが、そのおおよそというのはかなり薄っぺらにスライスされている。それでも十分に肉を味わうことができているのだが、冷静に考えれば、このカツという大本の料理に用いられる豚肉の、なんと分厚いことか。分厚いだけであっては火を通せば硬くなってしまうので、生の時分に、叩かれに叩かれるという仕打ちをこれでもかと受ける。食材というのは得てして、人間の手によって極悪非道の限りを尽くされて輝く。その点においてかつ丼というのは、どれだけの修羅を潜り抜けたというのかを想像すれば、一層のこと味わい深く感じるのは、さてどうしたものか。
 このかつ丼のカツは、どうやら五つに等分されているようだ。その中心を占める一切れに三つ葉が数枚乗っかっている。かつ丼というのは奥深く味わい深い料理だが、食べる場所によって味や触感が合わるというのは基本起こらない。ロースであるなら、端に脂の良く乗った個所がある程度だろうか。ところが、この三つ葉が乗っているというのがまた素晴らしい。これ自体かなり香りが強いために、当然相手をよく選んでやる必要がある。レモンやパセリの様に、とりあえず揚げ物に沿えればいいという訳ではなく、むしろ吸い物などの繊細な料理で一層輝いている印象がある。
 しかし、このカツを醤油ベースの出汁で煮込んで白米にかぶせたという、一見繊細さのかけらも見られないこの料理と三つ葉の、なんと相性のいいことだろうか。薬味である三つ葉がその料理の主を引き立てるというのは言わずもがな、ことかつ丼においては、その逆も成り立つ。つまるところ、三つ葉それ自体がひとしお増すのである。
 さて、彼女は口の中にある程度のゆとりができたことを悟ると、カツをもう一切れ口元へと運んで行った。無論一口では済ませず、その半分にかぶりついてはまた米の上へと戻してやった。これもまた一つの良さだ。長く味わうことができる。己の思いを寄せる料理に、常に口を支配されうるこの愉悦といったら、中々他では味わえない。その一方で、カツには当然限りがあるので、半分を過ぎたあたりからだろうか、名残惜しさが出てくる。まだまだ折り返し地点じゃないかと楽観するか、それとも残り半分っぽっちと悲観するか、この心情もまた味わい深い。
 彼女はどんどんと食べ進めてゆく。たまに水を口に含んで場を濁してはまた食う。カツを食っては米を喰らい、米を食ってはカツを喰らい、カツを食ってはカツを喰らう。そうしてしまいには、多少の米を残してカツは尽きてしまった。彼女はがっかりするだろうか、先にカツを頬張った己の浅はかさを悔いるだろうか。そんなことはしない。彼女の食事はまだ続いているではないか。存分に煮込まれたカツとはほんのひと時の付き合いであったが、多くのものを丼に残してくれた。文字通りその味を占めた、かつて白米だったものを、清々しい名残とともに平らげる。
 彼女は立ち上がり、お勘定を済ませる。今日もいい食事でした。それでは、また逢う日まで。振り返ることはせず、再び大学へと向かっていく。


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