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失ったものを補うほどに。

砂浜に残った自分の足跡。

柔らかな波が、
その足跡の上を優しく包みながら、
覆いかぶさって流れてゆく。

砂浜の表面をやわらかく撫でたあと
再び遥かな海のたまりへ。

気がつけば、そこに残されていたはずの、
自分の足跡など今までなかったかのように
もとのなだらかな砂肌は朝日の光にきらめいている。

欠けたところは、
波の営みによって補われていく。

なんて美しい自然の摂理だろうと見とれていました。


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人は永い道のりの中で、
何かを失うということがありますよね。

長い時間、共にしていた人と
別れを告げる時は来るものだし、
手にしていた希望を失うこともある。

時に世の中の競争の渦に巻き込まれて
大切なものを奪われてしまうことだってあるかもしれない。

それでも、
もしも「失う」ということが
ただそれだけのことであれば、
世界は、長い年月を重ねていきながら、
ただ絶望だけを深めていっただけのことになります。

でも、不思議なことに、
今生きている僕たちの時代は
絶望に満ちた世界にはなってはいません。

失うということは、ただそれだけのことではなく、
何かを得ていきながら、
その部分を補ってゆくことなのではないか。

そんなことを感じながら、
静かな朝を迎えました。

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僕は感動しやすい性格なので、
些細なことで感極まってしまうんです。

例えば、
一枚の絵画を見て心揺れてしまうことも何度もあります。

皆さんはラファエロという画家を知っていますか?
あのレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロとともに、ルネサンス時代の三大巨匠と呼ばれた一人です。

以前、僕は日本での仕事生活から逃れるようにして、しばらくヨーロッパを周遊していたことがあるんですが、偶然にも彼の絵画を目にする機会があったんです。

普段から美術館や博物館にはよく行っていたし、その延長上で本場ヨーロッパの絵画でも見てみようと気軽な感覚で絵画と向き合う時間を作ったんですね。

そんな気持ちで、ある美術館で過ごした時のこと。
ラファエロさんの作品に、ただただ感動して、
しばらくその前に立ち尽くしてしまったことがあるんです。

「美しい」

それは、
写実的に描いた美しさではありません。
実在しない遥かな憧れを描いた美しさに感じられました。
それは「大公の聖母」という名前の絵画でした。

実はラファエロさんが描いた多くの絵画は
聖書にちなんだものが多くて、
なかでも「聖母」をモチーフに描いたものに印象的なものが多いんです。

僕が見ていたのは、さすがに複製らしかったけれど、暗闇の背景から立ち上がる、聖母マリアと、その腕に優しく抱かれた幼いキリストの姿に身動きが取れなくなってしまったんです。

聖母の柔らかな雰囲気と優しさ、
存在そのものが美しいと感じさせる一枚の絵画でした。

「ラファエロさんは、もしかしたら、大切な女性を失ったことがあるのではないか」

ふと、そんな想いが僕の頭をよぎったんです。

僕も一応美術の学校に通い、
デッサンも絵画も勉強していましたから、
これは「女性を尊敬」していなければ
描くことのできない絵画ではないかと
直感的に感じたんですね。

そしてその尊敬の想いは、
その存在を失ってこそ感じるほどの
深いものに感じられたんです。


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実は、後から知って驚いたことなのですが、
ラファエロさんは、8歳の時に母を失ない
幼くして孤児になってしまってるんです。
また、生涯女性と結婚することもありませんでした。

僕の中で納得した事実でした。
彼はやはり女性にや母性に憧れ、
生涯その想いを持ち続けたに違いないと。

おそらくラファエロさんが幼い頃から母の愛情に恵まれて育ち、
その後、愛する伴侶とともに恵まれた豊かな生活をしていたら
あのような絵は描けなかったのだと思った。

ちなみに、ラファエロさんの柔らかで調和に満ちた作品は、西洋美術史上最高のドローイングと伝えられるほどの技術で支えられています。
彼は「裸体女性をモデル」として使った最初の芸術家でもありました。

女性に対して欠けた想いを、憧れに変えてゆきながら、
その隙間を埋め合わせるようにして
彼は数々の絵画を表現してきたのではないか。

もちろん、画家の生き方として、
パトロンがどうとか、
当時の宗教政策がどうとか、
そういった事情で絵画を描くことはあったにしても、
僕の中だけでは、そう理解してゆきたい。

亡き母を追うように生き急いでいたのか、
彼は37歳という若さでこの世を去り、
晩年に多数の作品を制作してこの世を去りました。

失ったもの以上に、それを補い表現した想い。

今頃、彼は憧れの母とともに
どこかで静かな時を過ごしているのかもしれません。



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人は何かを失った時にこそ、
それ以上の想いとともに
欠けたものを補なっていけるのではないか。

僕の身近なところでもそうした人はたくさんいます。

病で家族を失った友人は、その経験を乗り越えて、
自ら人々を病から救おうと医師を志しています。
また、法律の理不尽さに涙を流した人が
弁護士の道をあゆみ始めたりもしました。

声を失ってしまった人が、
声以上の言葉によって綴る豊かな物語もあります。

優しさや希望を失いかけた人が
やはりそれを時間をかけて補いながら、
数年後に人々の心を優しく包みこんでいたりもする。

失うことは悲観するべきことではない。

欠けたものは、補ってゆけるもの。

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もしも喪失感を感じることがあっても、
ゆっくりと時間をかけて、
そこに流れ込んでくるものがきっとある。

だから、その時は苦しくても、
その気持ちを素直に受け止めてゆけばいい。


今日もこうして時間は巡ります。


みなさんの気がつかないところで、
今この瞬間も、小さな心の隙間に
注ぎ流れているものがあるのだと思います。


今日も素敵な一日に。


遥か孤島から感謝を込めて。

いつもありがとうございます。


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想いを放ってゆけば、
必ずどこかにたどり着くもの。
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最後までお読みいただきありがとうございます。毎日時間を積み重ねながら、この場所から多くの人の毎日に影響を与えるものを発信できたらと。みなさんの良き日々を願って。