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「教育」を実践する上で大切にしたいこと

今回は、私自身が「教育」について考えていることを少しまとめたいと思います。他の記事と同じく、これが全て正しいというわけではなく、あくまで私個人の教育に対する考え方や取り組む姿勢なので、参考程度にお願いします。


教育で大切にしていること

私が教育に携わる上で大切にしていること・・・

興味関心/楽しさ/心打たれる瞬間をつくる

です。

私自身が「教育」という場面に、教育者/指導者/講師などの肩書で携わるようになったのは、2005年でした。(大学の時の教育実習は除きます)  当時、パワーポイントを使ったこともなければどのような順番で話をするかどうかも全て「自分よがり/自分主体」でした。当然にして私の話を聞いてくれた人に、自分が伝えたかったことの1%すらも届いていない感覚でした。今でも自戒の意味も込めて、その時に作成したスライドや原稿は手元に保存してあります(笑)その後、様々な経験やトレーニングを積み…今になってようやく人前で話が出来るようになったのではないかと思っています。

私は教育は相手がどんな状況の人であったとしても、「教育する人」「教育を受ける人」の「相互作用」だと今では思っています。その相互作用の中で生まれる「興味関心、楽しさ、心打たれる瞬間をいくつ共有できるか」が大切だと今では思うようになりました。よって一方的に何かを教えるというよりは、互いに知っていること、気づきを共有しあう時間が教育では大切であると思っています。しかしながら、全く知らないことを他人に伝えるということは、非常に困難が生じることなのだということもまた認識しています。その上で、「教育する人」「教育を受ける人」の立場であるならば、「教育をする人」は「教育を受ける人」に理解しやすい表現や体験を想像しやすい/教育を受ける人の立場に近い出来事として考えられる思考と仕組みをつくることが大切なのであろうと思います。よって今は何事も「教育を受ける人主体」で考えることが基本になっています。

上記のことを遵守しないと様々な危険があるのだと思います。特に、教育現場は、ハラスメントの温床になりやすい構造にあるのだと考えています。以前、Twitterでもつぶやいたことを以下に転載します。

先生と呼ばれ自分にみんながついてくる気持ちよさ。周囲の人はこの人の言っていることだから「大丈夫」という安心感。自分の言動の暴力性に気がつくことが難しい構造の一つが教育現場。結果がハラスメント。自分は「大丈夫」と思わず、自分にも生徒にも謙虚になる姿勢こそが重要だと思う今日この頃。

上記のこと以外にもいくつも大切にしていることがあります。

① 自分の教育を受けるのはこれが最初で最後だという意識                                ② カッコつけるよりも自分にしかできない教育をしようとする意識       ③ 受講生/生徒の変化に敏感でありつつ、一緒の時間を楽しむ意識     ④ 教育者の以前に一人の人として、生徒一人一人に向き合う意識         ⑤ 失敗した時/しくじった時などは人として謝罪する意識

私は現在、大学での教育/研究職としての職務を行っています。が、常にこの教育方法が良かったのか?無自覚に教室内の誰かを自分自身の判断で「排除」してしまっているようなことはないだろうか…。と省察(内省)しながら、学生と向き合いつつ教育に携わっています。

教育は…こうやれば必ず同じ結果が出るということではない為、難しさを感じることも多いです。だからこそなのですが、教育者としての自己研鑽は欠かせませんし、将来の職業としてAIがとって変わることの難しい職業の1つであると言われている所以なのだと思います。               以下の記事では、ソーシャルワーカーは将来有望な職業か!?という題名で書いた記事ですが、教育職も将来が有望な職業の1つとして記載されています。


大学教員の教育の方法

大学で教職に携わるというのは、一部の国家資格受験資格科目の認可教員を除いては、大学教員は小学校、中学校、高校などの様に専門の教育課程を経ることなく、教職に携わっています。整理すると…                                  * 小学校/中学校/高等学校   ・・・   教員免許必要                    * 大学/短大等         ・・・   教員免許は必須ではない      ちなみに、私(Nakazato)は大学在学時には教職課程も修了しています^^しかし、教員免許は取得した/教職課程の学習はしたものの、医療ソーシャルワーカーとして勤務する経験していたので、今後、小中高の教員になることもないかな…と思い、教員免許更新講習を受けることなく失効してしまっているというのが現状です。

医療ソーシャルワーカーの経験は以下のnoteで記載しています。お時間ある時にお読みいただければ嬉しいです。

大学という教育機関は、様々な研究/専門領域などで、教員各々がそれぞれの方法で教育を実践しており様々です。よって、大学という教育機関では方法論が統一されていないのが現状だと思います。ただ、方法論が統一されていないからこそ、クリエイティブな学びと気づきが大学にはあります。私自身も大学の時に受けた学びは今の自分の実践の軸になっていると感じることも多く、気づきが促された学びがたくさんあったんだろうな…と振り返ると思う次第です。

私は教育の専門家ではないのですが、きっと教育方法論としての科学的に確立された方法もあるのだと思っています。しかし、私も研究者及び実践者の一人として科学は常に進歩するものであると認識しています。今日の当たり前は明日の当たり前ではない。教育の方法も常に進歩しているのだと思います。

時代の変化とともに、教育の在り方も変化する                           教育の在り方の変化とともに、教員一人一人も変化する            教員一人一人の変化とともに、生徒も変化する                生徒の変化とともに、新しい文化が生まれる                      新しい文化が生まれ、また新たに時代が変化する

教員が絶対の権力者にならない為にも、基本は押さえつつですが、教育に携わる者一人一人が自分を変化させていくことが重要なのだろうと思います。

最も強い者が生き残るのではなく、
最も賢い者が生き延びるのでもない。
唯一、生き残るのは変化できる者である。
                       チャールズ・ダーウィン

1859年の「種の起源」の進化論の有名な言葉です。                       自分もそうありたいな…と常々思っています。


まとめ

教育についてつらつらと書いてきましたが、書いている今でも、本当にこの方法で良いのだろうか…と「疑問」に思ったりしている自分は常にいます(笑)また、家では子どもたちに向かって「勉強しなさい!」と繰り返し怒っている自分もいます(笑)                                      そもそも、教育の正解って、教育の目的から考えても「今は分からない」んですよね^^;だからこそ教育は不安でありながらも「楽しい」と感じるのではないかと思うのです。逆に言えば、将来が分かっている/未来が見えている仕事ってなんだかつまらなくも感じてしまうのではないかな…とも考えます。

表題に対する私のまとめは、教育を実践するとは、「教育する人」と「教育を受ける人」双方の未来をつくることなんだと思います。教育ってクリエイティブ/創造性豊かな仕事なんだとつくづく感じています。

最後に、私は好きな本の1つとして、「夢をかなえるゾウ」があります。その中でガネーシャというゾウが登場するのですが、いい言葉をたくさん言うのです。

人間にとって一番怖いのは、将来が見えないことじゃなくて、将来が見えてしまうことなんだ。

未来が見えないからこそ、今を一生懸命に、教育という方法で子どもと自分の未来をつくりたいという想いが大切なのだろうと思っています。

他にも…

苦しみを楽しみに変えるにはな、苦しみを乗り越えたとき手に入れられる『楽しみ』を考え尽くさなあかん。そんで、苦しみを超える量の楽しみを見出したとき、苦しみは楽しみに変わんねんで
他人に完璧さを求めれば求めるほど、自分が完璧じゃないことに苦しめられる。逆に、他人に完璧さを求めへんようになれば、完璧じゃない自分を許せるようになる


他人に完璧を求めるのではなく/自分中心ではなく、教育を受ける人主体の教育を…。学びたい気持ちを大切に、学びたい仕組みをつくること…今後、自分も大切にしていこうと思います。


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