私は「ソーシャルワーカー」なの?

『「私はソーシャルワーカーです!」と言ってもよいのでしょうか?』

『私がしている仕事はソーシャルワークなのか?それを言えない自分はソーシャルワーカーと名乗ってはいけないのではないか?』

『私は自信を持ってソーシャルワーカーと言えない…。でもソーシャルワーカーとして勤務している。ソーシャルワーカーを名乗っていいのか?』

上記の言葉は、最近社会人になった現役のソーシャルワーカー、特に5年目までくらい現場実践者から相談される内容として多い言葉です。

一言でいえば、「ソーシャルワーカー」って何者?と考えることが様々な経験や他者との交流等の中で多いのだと思います。思い出せば、同じような悩みを感じていた時もあるな…というより、今でも自分も同じような悩みを抱えているな…と自分の経験を近くに感じつついつも相談に応じています。

よって、自分がこの「ソーシャルワーカー」という職業とどのようにお付き合いをしているのか?を今回の記事ではまとめたいと思います。※個人的見解が多く含まれますのでご参考程度にお願いします。

1 ソーシャルワーカーとは?

ソーシャルワーカーはどのような職業なのか?ということについては、以下に書かせていただきましたので、お時間がある時にお読みいただければと思います。

が、今回は自分を「ソーシャルワーカー」と呼べるには何が必要か?ということに主眼が置かれることになるのかな?と思います。


2 「私はソーシャルワーカー」と呼べるために必要なこと/条件について

私は基本的に、ソーシャルワーカーという職業は、どうしても美徳化されやすいなぁと感じています。そのことから、「ソーシャルワーカーという仕事をしている自分は素敵な自分」になりすぎていないか?ということは自分に問いながら仕事をしていることが多いです。

先日の記事で、ソーシャルワーカーは専門職でなければならないか?ということを一部記載しました。

ここでもしかしたらヒントになるのではないかと思い、専門職としての条件を少し整理しておきたいと思います。

そもそも、ソーシャルワーカーは専門職か?という議論は、1915年、米国メリーランド州ボルチモアで開催された全米事前矯正事業会議(National Conference of Charities and Correction)において、フレックスナー(Flexner.A)が行った講演「ソーシャルワークは専門職業か?」がきっかけとなり、後のソーシャルワーカーは専門職かどうか?の研究に大きな影響を与えているとされています。

その後の研究等において、ソーシャルワーカーが専門職として成立するには、以下の条件が揃うことが必要であると文献等では述べられています。

*科学的理論に基づく専門の知識・技術の体系をもつ          *知識・技術を身につけるのには、一定の教育と訓練が必要である     *一定の試験に合格して能力が実証される                 *倫理綱領を遵守すること                                  *私益ではなく公衆の福祉に資するもの                            *社会的に認知された専門職団体として組織化されている

少し整理をすると、基本的には、専門職としてのソーシャルワーカーは、①科学的理論に基づく知識・技術をもつこと、②一定の教育の仕組みの履修を修了していること、③一定の試験(日本でいえば社会福祉士試験?)に合格していること、④倫理綱領を理解し遵守すること、⑤専門職団体に所属すること/その必要性を認識すること なのかと解釈することが可能です。

一般的には、上記の様にソーシャルワーカー/専門職と呼べる条件としては、上述の条件を満たせば可能であることは確かであると思います。

ソーシャルワーカーとして活動をする人の多くは、上記の条件にも合致しているものと思うのですが・・・悩む人がこんなにも多いのはなぜなのか…なぜ、自分はソーシャルワーカーかどうかで悩むのかについて考えてみたいと思います。


3 価値に対するジレンマ

「ソーシャルワーカーは人です」(笑)という表現から開始するのが良いかどうかはわかりませんが、ここで私自身が考えていることは、ソーシャルワーカーは職業名であって、その「人を表現する」言葉ではないことです。表現が難しくなってしまうのですが、ソーシャルワークは通称「価値の実践」であるとも言われています。ここでいう価値とは、「ソーシャルワークの価値(人権、社会正義、多様性尊重、集団的責任)」、「ソーシャルワーカーとしての個々人の価値」、「クライエントの価値」、それに加えて、組織で働く場合には「組織の価値」や「チームの価値」など…様々な考えや大切にしたいことなどが入り混じります。

私個人の経験ですが、様々な価値を大切にする中で、その優先順位と言いますか…どれも大切にしなければいけないと考える一方で、どれかを選択/若しくは優先順位を決めて実践しなければならない…。結果として、クライエントの価値に沿えたのか?ソーシャルワークの価値に沿えたのか?自分自身の価値にも沿えたのか?などなど…悶々とする時間が多くなるのだと考えています。

価値について考えること…これは、私自身も今でもこの経験は続いており、ソーシャルワーカーとして活動することは、価値について悩む職業なんだとある意味腹を括っている状態という感じです。一言で言えば悩むことは、「ソーシャルワーカーとして活動することに対する前向きな反応」でもあるのかな。と考えています。


4 ソーシャルワークをする際の壁の大きさ

次に「壁」の話をしていきたいと思います。ソーシャルワークを実践していくと…必ず「壁」というのにぶち当たります。それもとてつもなく「大きな壁」です。その壁は壊すという方法もあれば、避けるという方法もありますが、どちらにしろ、簡単に乗り越えることが難しい壁です。抽象度が高い書き方になってしまったので、少し具体的に話をしたいと思います。

私が感じた&感じている壁には大きく分けると以下の3種類です。

①「自分自身の中にある壁」

自分の知識/技術の未熟さに愕然とし、その未熟さ故に、自分自身の実践の未熟さをクライエントの責任として押し付けてしまったり…自分の未熟さを認めたくないが為に、無意識に肯定的に捉えてしまったりなど、様々な場面に直面します。しかしながら、きちんと向き合うことをしない限りは、その壁を乗り越えることって難しいのだと思います。そんな時に力になってくれるのが、スーパーバイザーという存在なのだと思います。自分の壁は自分で乗り越えることの大切さを一番近くで一緒に考えて、そして時には助けてくれる存在です。

しかしながら、その壁は一つ乗り越えたと思うとまたすぐに新しい壁がやってくるのです(笑)そんな時は、自分の弱点やネガティブな部分と向き合えるチャンス!きちんと覚悟を決めて取り組むという姿勢が必要なのかも知れません…。

私自身は、「どんな支援であったとしても、決して他人/クライエントのせいにしない」ということを心に決めています。このように決めたのは、ソーシャルワーカー3年目の時でした。

②「社会の課題の壁」

社会の課題の壁…この壁の存在はとても偉大ですし…すぐに乗り越えることが難しい壁なのです。しかしながら、ソーシャルワーカーと呼ぶからには、社会課題も解決することが大切である!と倫理綱領にも様々な研修でも述べられていることです。

すぐに解決できないからこそ、疲れてしまう…。解決できないと、無理かも知れない…という思考に陥りそうになる/陥ってしまう。本来は社会課題を解決しなければいけないのに…それが出来ない自分は「ソーシャルワーカー」と呼べないのではないか…。という話のストーリーはよく耳にします。

世の中の仕組みを考えていくことって、本当に大変だよね…と私自身は思います。また、声を上げるだけでも大変なことなのに…という気持ちです。声を上げ始めると、その声は誰かに届く…。そしてそれが派生していく…。という社会の課題を解決に向けて進む一歩が、解決までに至らなくても、その声を拾ってくれた人の誰かが進めてくれるかも知れない…。と思うと道は決まってくるのだと思います。

社会の課題の壁に向かって一歩進むだけでも、それは大切なソーシャルワークなんじゃないかと個人的には考えています。

③「対人援助としての壁」

対人援助という仕事は、「クライエントへの尽きない興味」によって成立していると私自身は実践経験等から考えています。尽きない興味という意味は、クライエント自身が今後の人生をどのように進んでいくのか…たとえどんなに苦しい状況があったとしても、人生を全うすることをどのように考えているのかなどを教えていただき、時には伴走者として一緒に進んだり、時には道が分かるところまで先導していくことをしたり、後ろから邪魔者が来ない様に見張ったり…色々なスタンスで関わるのです。

苦しくなる時の多くは、クライエントとの距離間など、対人援助だからこそ起こる不確実なトラブルがきっかけになり…自分はソーシャルワーカー/専門職なのにミスをしてしまった…。向いていないのではないか…。ソーシャルワーカーと呼べないのではないか…。などになってしまうことがあるのはよくある話です。私も同じ思考に陥ったことは何度もあります。そんな時…受講した研修や読んだ本に救われました。

*クライエントは、人となり、弱み、自発的なところを見せるソーシャルワーカーに最もよく反応する(Shulman, 1991)
*クライエントは、ソーシャルワーカーが完璧で、道徳的な人物であることを期待していない
*ワーカーの共感、熱心なかかわり、役に立ちたいという気持ちの方が、失敗やおぼつかなさ以上に大きな意味をもっている。
*成功している実践者は、「厳格でいつも同じ」な人と言うよりも、「実際に頼りがいのある」といった人物(Rogers, 1961)

という表現に何度救われたことか私は数えきれません。


5 まとめ

最後になりますが、私自身は「Tetsuya Nakazatoの中にソーシャルワーカーという存在がいる」という感じです。当然にして自分という存在が中心にいて、ソーシャルワーカーという存在が自分の周りにいるという感じです。よって、基本は「自分」です。

「ソーシャルワーカーでいる時の自分」「父親である時の自分」「夫である時の自分」「教員である時の自分」「地域で活動する時の自分」など…様々な社会の中での自分の姿がある訳ですが、ソーシャルワーカーでいる時の自分はいつもの自分と違う?違うとすればいつもの自分と何が違う?と聞かれた際に、「いつもの自分と一緒」と答えられる方が、良いような気がしています。自分らしさが、担当したクライエントに伝わり、良い関係性を築くことが出来て、支援が展開できていた感覚があります。

よって、自分にとっては、決してソーシャルワーカーは決して特別な存在ではなく、いつも自分の中にある福祉的思想や考え(誰も排除されない社会を創りたい/目の前の困り感に対して力になれることはしたい/など)が常に出せる状態になっていることが理想のソーシャルワーカーの姿なのです。ただ、自分も無意識に誰かを傷つけているかも知れない…誰かを排除しているかも知れない…と常に内省しつつ今後も進んでいけたらな…と思います^^

あなた自身は、自分をソーシャルワーカーと呼べますか???

長文を読んでいただきましてありがとうございました。

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