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「対話の害」書評〜けど,これを書いている人間とは対話したくないよ〜

(タイ・バンコクで出会った二匹の猫.彼ら/彼女らはどんな「対話」を日々行なっているのだろうか)

この文章は,以下の書評を受けて作成したものである.

「ゆっくり読め」という本の指示に反し,(購入するのもかったるいので)朱雀の図書館まで行き一時間くらいでさっくりとこの本を読んだのだが,感想としては「伝えたいことがいまいちよくわからない」というものに尽きる.この本は,一貫して,マイケル・サンデル教授の「白熱教室」のような”対話形式”とされる講義に「問題自体の条件を疑うような思考を促していない」という姿勢にて批判している.その批判の内容自体は理解できるのであるが,どうもその批判の内容が「浅い」と感じ,結果として筆者が何を伝えたいのかわからないのだ.以下に,その点を複数挙げる.

対話,議論,沈考など「思考様式」において,それらが持つ特徴,特色を十分検討できていないと感じられること

この本における”対話形式”への批判は,要するに「十分深く思考できない」という点に尽きると思われる.確かに,”対話形式”,そして他者との議論において,思考は他者の発言などにより阻害されがちである.そして,筆者は一人じっくり本を読み,思考する形式が重要であるとしている.確かに,私も一人で考えているときに他者から喋りかけられたら邪魔だと感じるし,一人でじっくりと文献などに当たり考えを練ることを好む.
しかしながら,”対話形式”,そして他者との議論にも「思考」を促進する面があるだろう.研究室や,サークル内における雑談などでテキトーに喋った事柄から見落としていた意外な事実や,観点に気づくことは多々あった.もちろんそれらの事柄は自分の中で十分練った思考ではなく,いわば脊髄反射的に発された言葉ではあったが,確実に「学び」にはなっていたと考える.自分の中で十分練った思考を用いた場合「のみ」,他者との”対話”,そして議論の場に供した結果有効な知見を得られる訳ではないということだ.“対話”や議論の場で述べるに際し,テキトーに喋った事柄,興味があり,その場では考えたことはなかったけど以前考えたことがある事柄,沈思黙考し十分練った事柄,そのそれぞれに違った性質があり,単純に比較可能ではない,異なった知見が得られるであろう.異なった性質がある方法があるのならば,それらを十分に理解し,自己の目的に対し使いこなせばいいだけである.”対話形式”によって促される思考にも,例えば,学生に対しそもそも哲学や倫理という対象自体への意識を向けさせるというものがあるかもしれない.本書には,” 対話形式”,および他者との議論によって得られるべき利点などを十分考察しているとは私には思えなかったので,批判の内容が「浅い」と感じてしまった.
私は,一般的に「使えるものは,その意図と性質を理解した上でなんでも使うべき」だと考えている.あえて用いることができる選択肢を自分から縛りにいくのは大抵の場合において得策ではないだろう.そもそも,”対話形式”や議論の特徴や利点を再考する姿勢こそが,哲学や倫理によって養われる「前提条件なき思考」なのではないだろうか.

そもそも,この本で挙げられる「正義」,「善」の定義がよくわからない.そして,考察の対象とする問題も明確ではない

おそらく,これがこの本の考察における一番の問題点だと思う.著者は,マイケル・サンデル教授の”対話形式”による講義により学生に対し発される質問に対し,「正義ではない」,「不正である」とたびたび指摘しているが,私が読んだ記憶の上ではこの「正義」や「不正」の定義が出てこなかった.おそらく「よりよく,より深く思考することを促す」のが「正義」だとされているが,これは一般的な定義であるとは言えなさそうなので,何処かに明記して欲しいと思う.また,本の全体的な内容として,しばしば著者個人のエピソードや,口語的な語りやただの感想などが介在してきたりするので,今何を考察しているのか把握できなくなることが多々あった.「ちゃんと時間を使って読まんかい!」と怒られるかもしれないが,私は少なくとも評論文においては,軽く一読した上であっても論点を明確にできる文章こそが「よく練られた」ものであると思う.

与えられた問題をただ疑えばいいというものでもない

本文には,「反射的に問題を解決する」学生・生徒への批判がある.また,マイケル・サンデル教授が発する質問に対し,前提条件が十分に明らかではないという批判がたびたびなされている.確かに,問題設定を無批判に受け入れ,反射的に解答する姿勢は「よく思考されている」ものとは言えないだろう.しかし,問題設定をただいたずらに疑い,状況の可能性を無限に拡張していく姿勢もまた「よく思考されている」とは言えないと私は思う.私は,思考,および哲学というものは何でもかんでも疑ってかかるというよりも,今目の前にある対象をより明確にするということが目的であると考えるからだ.
問題が置かれている状況設定は,「問題を解くために必要十分な」ものであるべきで,無闇矢鱈に目の前の事象を疑えばいいというものでもない.G・ポリアの名著,「いかにして問題を解くか」にも,問題を理解するためには「条件は未知のものを定めるにあたり十分であるか,不十分であるか.余剰ではないのか,矛盾していないか」把握することが重要だとある.問題を解くために不要な条件を仮定しても,有効な議論ができるとは思えない.もちろん,本書であげられているような懐疑主義的な姿勢は,「問題をより明らかにするため」必要なものだったのかもしれないが,上にあるように今扱われている論点や,到達するべき点があまり明確ではなかったため,問題の条件を疑う上において何を目的としていたのか把握できなかった.思考するべき対象を明確に見定められた場合にのみでしか,「より練られた思考」は実現されないと思う.

発言者の資格や行為自体を問う態度について

筆者は,発言内容の是非だけではなく,「発言者が,自らの失態や落ち度を棚に上げて問題提起を行うなどの行為」自体の正しさも問うべきだと趣旨の記述をしている.正直,その「行為自体の正しさを問う」意味があまり良く理解できなかった.そもそも,どのような状況において「発言内容」と共に「発言する行為自体の正しさ」も問題視されるべきなのか,そして,その行為を問題視することにより何が得られるのかさっぱりわからなかった.
少なくとも,私が知っている「科学」,「学問」という営みにおいては「発言者の内容と発言者の性質は分けて考える」ということが大前提である.「発言者の内容」の是非と,発言者の性質や資格の是非は全く別の論点であり,発言の内容ではなく,その性質や資格を問う態度は率直に言って誤謬(人身攻撃の誤謬)だからである.故に,「科学」や「学問」を行う上において,発言者の性質や行為が問題となるような場面は私が考える限りないと思われる.また,「発言する行為自体の正しさ」を問う姿勢は,発言者を萎縮させる効果があると容易に想像でき,「対話」,「議論」する上においてかなりの障害になるのではないかと考える.

さいごに

意外とボロカスに内容を批判してしまった.まあこの書評が筆者本人に届く可能性が薄いので,私の一方的な意見発出に留まり「対話」は成立し無さそうであるが,この本の筆者とはあまり「対話」したくはないなぁというのが率直な感想である.この筆者は「対話の害」を論じておられる方なのであるが,この本の内容のように,思考の枠組みが狭く,用いている論点や定義が明確ではなく,また発言の内容だけでなく発言者の資格も問題視してくる方との「対話」は,どのような形式であれ「害」しか残さないのではないかと私は考える次第である.


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