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ぼくが僕になるまで(少年期⑤)

★好きなことをとことん。これ以上に何が必要?

協定その五:期間は一年間。

「そうだな」口の中にきゅうりを残したまま、甲野さんは話し始めた。「さっきの話の続きだが、当時の俺は大学を出たばかりの若造だった。俺の出た大学は世間に名の知れた大学だったから、最初から面白いように内定が取れたんだ。付け加えて景気が良かったのもあった。自分で言うのもなんだが選り取り見取りだった。その内定先から、俺は一番待遇がよさそうな企業を選んだ。周りのやつらも俺と同じで、それなりの会社に就職が決まっていた。俺と同じような一流企業だ。やつらも俺と一緒で何らそのことに疑問も不満もないようだった。それで俺は躍起になった。自分がそれまで目指してきた目標を達成したんだ、躍起にならないほうがおかしい、だろ?その時の俺は何でも出来るような気がしていたし、これから起こる何もかもが上手くいくような気がしていた。今思えばバカみたいだが、当時はそう思えてならなかった」
 ぼくはもう一個、甲野さん特製のきゅうりを口へと放り込んだ。二回目に口にしたのきゅうりは最初噛まずに口の中で転がしておいた。転がしているうちにだんだんと塩気が取れていく。辛いのもあって舌が時々ピリッと痺れた。でも、いつまでたっても唾液は出てこない。いくら転がしてみても変わらない。


「俺が就職したのは大手の商社だった」長く瞬きをした後に甲野さんは言った。「まあ簡単に言えば物を売り込む仕事だ。海外に行くこともあったし、現地で新たなニーズを獲得するため奔走したりもあった。なかなかやりがいのある仕事だ。自分がどうなるのか知りたければ、先に入社した先輩を見れば大体のところが分かる。彼らの生活範囲や食事、乗っている車が分かれば、どれぐらいの階級に彼らが属し、また自分が属することになるのかがわかる」甲野さんの手の人差し指と中指の間には爪楊枝が挟まっていた。爪楊枝は動きを止めじっとしていたので、それを使って何かをおびき寄せようとしているようにぼくには見えた。辛抱強く何かを待っているかのように。「俺はそこで五年ほど働いた。それでその仕事を辞めた」
「なんで?相当給料がよかったんだろ?」
「まあそうだな。あと数年働いていたら確実に数千万は貰っていただろうな」
 ぼくは息を吸いこんだ。それにつられ、眉もいっしょに上がっていった。鼻の麓が縦に引き伸ばされた感じがした。
「まあそういう意味では惜しいことをしたかもな。俺の大学の友人は現にそういう世界で暮らしている。彼らは数十年前に俺が見た先輩らと同じような身なりと暮らしをしている」
「そのまま働いていればこんな狭い木造の家じゃなく、高級マンションに住めていたのに」
 甲野さんは爪楊枝できゅうりを刺した。爪楊枝の方が負けてしまいそうなほど弱く。「でもそこには本来の俺はいなかった。つまり与えられた仕事に俺はあまり熱中できなかった」甲野さんは口にしたきゅうりを、まるでガムみたいにくしゃくしゃと磨り潰していた。それも、味が抜けきった後の価値をなくしたガムのように。「お前は朝起きた時どんな気持ちで起きる?」
 ぼくは肩をすくめる。「考えたことないな」
「なんかしたいと思うことは?」
「とりあえずミユにでも会って、ちょっかいでも出そうか、面白いことがあったなら話してやろうかなって。それぐらい」
「そこにお前は活力を見出しているわけだ」
「活力とは違う。けど、一つでもいいことがあればとは思っているよ」
甲野さんは床をじっと見ていた。しばらくして、「そういうことだ。朝起きた時に何かやってやると活力に満ち溢れること。もしくは寝る前に早く起きたい、寝てなんていられないって思うほどの何かを仕事に選ぶべきなんだ。自分を掻き立て高揚させてくれる何かを」甲野さんは噛むのを止めていた。噛むのをやめた甲野さんの頬は窄まっているように見えた。


「それが商社で働いていたときはなかったって、そういうこと?」
「そうだ。俺はもっと何もわからないところで働きたかった。手つかずの、一から何かを作り出せるようなところでな。未来の青写真なんてクソくらえだと思ったね」
「それじゃ甲野さんの友達はみんなクソっていうわけか」
「なんとまあ、皮肉好きな坊主なこった」甲野さんは唇をゆがめて笑った。「そうじゃない。俺にはそうだったといいたいわけなんだ。つまり、ある奴には商社での仕事が合っているだろう。そこにやる気を見出すだろうし、喜びも見出せる。それがコンビニのバイトだろうと高級住宅マンション専属のガードマンだろうと人それぞれだ。その割合は違うかもしれないけどな」
「高い給料もらえるなら、ぼくだったら商社で働くね。もったいない。それに悪い仕事だとも思えないし」
「傍から見りゃそうかもな。だがそれはあくまで他人の基準だ。俺の物差しで測ったわけではない。俺にとっちゃあそのまま商社で働いている時間の方がもったいなかった。俺が言いたいのは、人から見て良いとか悪いとかそういう類のことは一切問題にならないってことだ。自分がその仕事に打ち込めているか、仕事内容が気に入っているかの問題でしかないんだ。例えば平日の勤めが終わって、待ち望んでいたやっとの休みが始まったとする。その時どう思うだろうか」
「やっと休めるって喜ぶだろうね。たぶん甲野さんは否定するんだろうけど」
「俺のこと、よくわかってきたじゃないか」甲野さんは満足そうに口を横に細く広げた。「そう思ったって事はその仕事が嫌いだ、少なくとも好きではない証拠だ。連日働き詰めで疲れている。疲れていれば休みが欲しくなるのは当たり前だ。これはどうしようもない。だが次の日になって肉体の疲労が取れたあとも、その仕事に戻る気になれなかったとしたら問題だ。休日が過ぎていってしまうのがイヤだと感じることも同様だ。それらは、あまりいい兆候とは言えないな」
「でも趣味とかやりたいじゃんか」
「子供らしくない発想だな。まあ趣味をやりたいってのはあるだろうが、頭のどこかでその仕事に燃えている自分がいなければならない。隅っこでもいいから火種を絶やさず残している自分がいなけりゃならない。どうしてやろうと舌なめずりしている自分がな」
「聞いてるだけで疲れてくるよ」
「片時も離れるなとは言っていない。流石にそこまでは要求しない。仕事中毒になったらそれはそれでまた違うことだしな。たが、ふと気が付いたときにそれが思い出されて、やる気になるぐらいの気概は欲しいものだ。一番悪いのはな、給料がいいとか、待遇がいいとかそういう理由で仕事を続けていることだ。そういうやつはおそらく休日が待ち遠しくてたまらないだろう」
「そんな人が大半だと思うけどな」
「まあそうだろう。だが人を見ていて、もっと自分の声に耳を澄ませるべきだと思うのも確かだ。家族のためだから辞められないとかいうやつに会うと、特にな」


 甲野さんは指に挟んだ爪楊枝を両手の親指と人差し指で挟んで橋渡しをしていた。爪楊枝をしならせて、このか細い木材に宿る耐久力を推し量っていた。でも、そうしていたからといって、一体どれだけの耐久力が備わっているか、別に知りたくはなさそうだった。へし折れてしまえばそれはそれ、という感じだ。「もっと自分に忠実になるべきなんだ。自分に嘘をついてどうなる。せめて自分の中だけでもとことん自己中心的になるべきだ。他人を中心にした生活や他人の考えに支配された人生の何が楽しい?他人のことを思えっていうのは行動においての話だ。内在的な話ではない。それに自分と他人の利害が一致しないとも限らないしな。まあその自分ってものが彼らにはわかっていないのかもしれないが」
 持ち主の過度の要求に耐えきれず、爪楊枝は真ん中辺りで音もなく二つに裂けた。裂けた部分にささくれが出来、互いが互いに向かい合うよう棘が睨みを利かす。その折れて使い物にならなくなった爪楊枝を甲野さんはテーブルの上に置いた。端の部分だけが辛うじて互いに交通している。「俺の言ってることは実行するとなると、実際はそれなりに難しい。日々何としてでも食っていかないことにはやっていけないし、皆が皆耐えうるだけの胆力を持っているとは思えないからな。とにかく、周りからの声を全て追い出さないことには始まりゃしない。数十年先に行き着くであろう自分が、皆にそう見てほしい自分なのか、それとも自分にとって好ましい自分のどちらなのか絶えずチェックする。そんなところだ」
「それで甲野さんはそのチェックとやらを済ませて堂々フリーランスになったわけだ」
「最終的にはな。最終的にはそういうことになった。まあ商社で働いているうちにある程度準備しておいたが」
「一緒にやるってことは考えなかったわけ?昼は商社マンとして働きながら、夜はフリーランスとして働く。結構魅力的だと思うけどな。年収も多くなるし」
「そんな風な生活をしていたら、女には事欠かなかっただろうな」甲野さんは歯に挟んでいた爪楊枝を噛んで、ピンと上へと持ち上げた。「喉乾かないか?」ぼくは頷いた。
 甲野さんは立ち上がりキッチンまで行った。逆さにして置いてあったコップを水切りかごのスタンドから取りあげる。蛇口をひねり、コップに水を注ぎ入れる。コップを甲野さんから受け取り、水を飲む。甲野さんはキッチンに戻る。
「くそっ、ハイネケン切らしてたか」甲野さんは反転し、シンクに腰を落ち着けた。手にはスーパードライ。タブを開け、缶のままで飲みはじめる。

「なあ」一口ビールを飲むと、まるで遠くの方から呼びかけるように甲野さんは言った。「魅力的だとかそんなものは端からないんだ。魅力がありゃ初めからやりゃいいだけの話だし、やっていればわざわざそんなことをいう必要もない。それにその魅力ってやつも大抵が他人が見たとき魅力的に映っているかどうかって話だ。大抵の奴は他の奴に言って納得される仕事かどうか、尊敬される仕事かどうかってことに絶えず気を遣っている。そんなことに人生の大半を費やし、短い人生を捧げている。俺にとってはな、そんなことはどうでもよかったんだ。そんなのは考えるだけ時間の無駄だ。人から認められようとしたり、一人前のちゃんとした人間、親からも友達からも銀行からも信用がある人間になろうなんてのはまず上手くいかない。自分でわざわざ手首に枷をかけるのと同じことだ。動きにくくなるのは当たり前だろう。そんなことに気をかけるからなれもしないものを絶えず追って、そのギャップに苦しむことになるんだ」
「そうするのはえらく大変だよ」
「そうだな。そうなるためには自分に対して確信を持っていないといけない。自分を偽っていないか、抜け目なくチェックを行き届かせなければならない。それは簡単なことではないし、ある意味一番難しいことでもあるかもしれない」
 甲野さんはビールをちびちびと飲んでいた。喉を潤すためじゃなくて、その苦味を常に感じていたいかのようだった。缶から唇を離し、しばらく経ってから甲野さんは言った。「やると決めたら、俺はとことんやる人間なんだ。何をさしおいても」
 甲野さんは何かを遠くに見つめているように目を細めた。瞳がまどろんでいないので酔ってきたわけでもなさそうだ。現にある何かを見ようとしているのじゃなくて、自分でも知らない何かを甲野さんは見ようとしているようだった。その何かは目を凝らしさえすれば見えてくる、というわけでもなさそうだ。でも目を細めることで、もしかしたらいつかは見えてくるかもしれないと信じているようだった。
「中途半端はないってことだね」
「そう」と少し時間を空けてから甲野さんは呟いた。「そこには半端なものは存在しない。やると決めたら、それに全力を注ぎ込め。覚えて置け。もし自分にとって大切なものが見つかったら、それを決して手放さないことだ。そんなものが目の前に現れることだって、めったにあることではないんだから」甲野さんはシンクに寄りかかっていた。ぶら下げている様子からすると、缶にはまだかなりの量のビールが入っているようだった。しばらくしてから、その手にぶら下げたその缶をキッチンの天板の上へと置いた。予想通り、重みのある音がした。音が静かに部屋に響く。少ししてから、缶から手を離し甲野さんは立ち上がった。「もう遅いぞ。ガキはそろそろ家に帰れ」そう言ってこっちまで歩いてきて、机の上のタッパーを手に取って蓋を閉めた。
「もう十四になるんだけどな」ぼくは椅子から立ち上がり、テーブルに置いておいたバッグを担いで、玄関に向かった。ドアが閉まる前に振り返って部屋の中を見たけれど、甲野さんはタッパーをキッチンの天板に置いたまま、冷蔵庫に片づけることも他の皿に移すこともしていなかった。

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