見出し画像

ぼくが僕になるまで(幼少期⑤)

★人のテリトリーにずがずかと入る奴は、マンボウにでもなるがいい。

 父さんはぼくの部屋にノックもしないで入ってくると、中には入らずにドアのところで立ち止まった。足を肩幅に開き、腕を胸の前で組むと、何かを点検するかみたいに部屋の中を見回しはじめた。用紙にチェックを書き加えていくみたく、一つ一つ正確に視線の合図を送っていく。特に本だなについては時間をかけていた。それから父さんは納得したように頷くと、胸の前で組んでいた腕を解いて机の前に座っているぼくの横までやって来た。「本を読むのが好きなんだな」と父さん。「一日どれぐらい読んでるんだ?」
 ぼくは考えて、指を二つばかり広げる。「一二時間ぐらいかな」
 父さんは顔を下に向けたまま、まるでいくつかあるプランから何を選ぼうかと迷っているみたいに机を何度か指で叩いた。机からの音よりは叩いている、そのこと自体の方が大事みたいだ。父さんの指に合わせて、部屋の中にカツカツと乾いた音が響きわたった。その音を聞いていると、虫が一匹持ち場を目指してはっているみたいに足のうらの、指のふもとの辺りがむずむずとしてきた。かかずにじっとこらえていると、父さんは机を指で叩くのを止めて、ぐるっと身体を反転させて机の上に乗っかった。
「もう宿題は終わったのか」
 顔を上げて父さんの顔を見ると、父さんは首をねじって顔だけをぼくの方に向けていた。五本の指がヒザの間でしっかりと組み合わされている。ぼくは首を横にかたむけた。


 父さんの目が、ぼくの持っている本の上へと落ちていく。うっすらと赤味がかったほおが両方ともかたくなり、しばらくしてまたゆるくなる。口の奥の方で、一度歯をぎゅっと強くかみしめたみたい。父さんが本を閉じろと言ったので、それに従いぼくは本を閉じた。
「学校から帰ってきたら、まずは学校の宿題をすませるように」と父さん。声も口調もいつもと同じで、まるで冗談でも言ってるみたい。「宿題がすんだら母さんを手伝ってやってくれよ。オレも母さんもいそがしいんだから。マコトの助けが必要なんだ。マコトもわかっているだろ。本を読むのは手伝いが終わってからにしろよ。なっ」父さんは自分の指揮下にある本をじっと見ていた。ゆるくなっていたほおが急にきゅっと引きしまり、少ししてまた元に戻った。まだ歯をかみしめているのだとすると、何か甘い味がするのかも。

「本なんてのは読まなくったって別にいいんだ」と父さん。「読んだからってお金がもらえるわけじゃないしご飯が食べられるわけでもない。なっマコト、そうだろ?読んだところで何かなるというわけじゃない、だろ?オレなんて一冊もまともに読み終えたことはない。だが、十分やっていけている」本を押さえつけている父さんの手は大きくて、本からはみだしそうだった。伸び伸びしたいんだったら、あともう一冊余計にいる。

「本を読む暇があるんなら勉強するか他の子供たちのように外に出て遊べ。外で遊ぶ分には文句は言わないから。遊ぶのは子供の特権だからな。まあオレとしては出来るだけ勉強をしてほしいが」父さんは鼻から大きく息を吸いこんだ。顔から下へと腕の先をたどっていくと、父さんの指が先っぽの方だけ白くなってくすんでいた。まるでそうしておかないことには、ぼくが本を手に部屋から逃げ出して行きかねないとでもいうみたいに、手には力がこもってた。

「勉強すればその分だけいい学校に入れる。それは子供のお前だってもうわかっているな。オレからじゃなくても塾の先生にさんざん言われているだろ。勉強をしていい学校に入ることができれば就職の時に自ずと有利になる。それだけで、他の奴らより一歩も二歩も前に出られる。だがな、もしお前が本を読むのが好きだと言って、このまま本ばっかり読んで勉強をしないでいたら一体どうなる?その間にな、他の奴らにぐんぐん置いていかれてしまうんだぞ。他の奴らはみんなお前の知らない間に一生懸命勉強している。いい学校に入っていい会社に就職したいって思っているのはお前だけじゃないからな。一日だけをみればそう大きな差にはならないのかもしれない。だがチリも積もれば山となるって言うだろ?そういう細かいのだって積み重なるとすごいんだ。今は競争社会だ。お前にそういう気がなくても、相手は気にせず近くの奴を蹴落とそうと目を光らせている。もしお前が途中でやめれば枠が一つ空いて助かるからな。お前がそのことに気づかずに怠けていても、相手からすればラッキーなことだし、それをわざわざお前に言ってくれる奴なんて一人もいない。お前には教えないようみんなグルになることはあるにしたってな。友達なんて実際そんなもんだ」父さんは本にもっと力をかけた。その分だけ手がちょっと浮いて、指の先の白さが増した。本は何も言わずに父さんの横暴によく耐えてる。

「本なんていくら読んでも腹の足しにもなりゃしない。偉くなるわけでも、優遇されるわけでもない。成功した奴らの話をどれだけ読んだとしても、少しの金にもなりゃしない。お前が本を読んで、一番うれしがるのは誰だ?それは本を書いた奴らだ。本を買えば買うほど奴らには印税ががっぽり入る。アイツらは座って待っているだけでもうけてんだ。それとだな、本を読んでいいことなんてほんのちょっとしかない。ほんのちょこっとだけだ。物知りだってウワサされるぐらいのもんだ。それがわかってるんなら初めからしないほうがいいだろ?早めにわかってよかったな」話しやめても父さんは、しばらく手を本に置いたままだった。父さんは手の下に置いてある本をじっと見ていた。ぼくの方も父さんが押し付けている本から目を離さなかった。本は、まるで素手で取り押さえられた小鳥みたいに動けないでいた。
 白くくすんでいた指に赤味が戻り、手から力が抜けていく。そして父さんは本から手を取り上げた。本から取り上げた手でカリカリと首の後ろをかく。「本なんて読んでいないでもっと自分のためになるようなことをしろよ。もっと先を考えて行動するように。今どうすることが一番自分のためになるのか、もう一度よく考えてみろ。わかったな」父さんは机から床に下り、本だなに行って、空いているスペースに本を押しいれた。押し入れたあとも本だなの前にいたが、少ししてから、父さんは部屋から出ていった。ぼくはすぐに本を取り返しに行った。

「あの子よく遊びに来るな」父さんは冷ぞう庫の製氷機から氷をすくってコップに入れ、蛇口からコップに水を注ぎ込んでいた。入れ過ぎた水がシンクに捨てられる。
「ミユちゃんのこと?」
「ミユっていうのか。苗字は?」
「セガワよ」
「セガワミユか」父さんは憶えておいて損はないみたいに言う。「ミユはどういう漢字を書くんだ?」
「希望の望に、結果の結でミユって読むのよ」
「へえ」父さんはコップに口をつけて、水を一口だけ飲むと、後ずさって壁に背中をつけた。父さんの顔がこっちに向きかけたので、ぼくも同じぶんだけ頭を回転させてテレビに目を向けた。男のアナウンサーがぼくに向けてしゃべっていた。彼がしゃべれるのも父さんが席に着くまでの間だけだ。「ミユちゃんは近くに住んでいるのか」
「そこまで近くないわ。学校の向こう側。この夏にあなたと真がキャッチボールをしていた公園の近くよ」
「そりゃ結構な距離だ」
「昔、望結ちゃんのお母さんと同じ職場で働いていて。それで真も友達になったのよ」
 父さんがなかなかやって来ないので、その時間を利用して二日分ほど欠けていた社会の流れを補った。ぼくに関するようなことはなにもない。中東情勢が少し悪化しただけだ。


「じゃあずいぶん昔からってわけか」
「そうね。昔は望結ちゃんのお宅にだいぶお世話になったわ。真を迎えに行けない時なんか、一緒に連れて帰ってもらったこともあったわ」
「へえ」カランカランと音がする。
「イラクの首都バグダッドの西約50キロにある中部ファルージャで14日、反米武装勢力とみられる70人規模のグループが警察やイラク保安隊、行政機関の建物を相次いで襲撃、応戦した保安隊などと市街戦を展開しました。フランス公共ラジオによると、警官や市民ら19人と武装勢力側4人の計23人が死亡、このほか35人が負傷しました」

 父さんがリビングにやって来た。隅から視界の中に缶ビールが入ってきた。床が擦れる音。席に着く前に、コップに入った水を最後の一滴まで飲み干してるんだろう。これはビールを入れる準備段階に当たる。近頃よくそうしている気がする。水を飲み干した父さんが席につく。これで情報収集の時間も終わり。アナウンサーの仕事姿も今日は見納めだ。

「ロイター通信は、治安当局者の話として武装グループが治安当局の施設に拘束されていた約100人を逃亡させたと伝えました。イラクでの大規模戦闘が終結して以来、今回のように軍事作戦に近い組織化された大規模襲撃は初とみられます」父さんの方をちらっと見てみると、父さんはまだイスの前にいて座らないでいた。左目をつぶって、父さんを視界から取り除いてから料理の進捗状況を観察する。

サポートしてくださると、なんとも奇怪な記事を吐き出します。