和訳:日本はウクライナ民族主義者を「ひもにつないでいた」ことが公開文書から判明。
7月1日露のリア・ノヴォスチ通信が、露連邦保安庁が公開した情報を基に、第二次世界大戦の日ソ直接対決に先立って、日本がウクライナ・民族主義者(実質的にはナチス)と提携し、沿海地方の当時のソ連からの分断を計画していたと報道した。今回は、当方の評価・見解を加えず、当記事を和訳し、紹介したい。
※いつか機会があったら露沿海地方に20世紀初頭に設立され始めたウクライナ系(当時:マロロッシヤ(小露))植民地の生い立ちを紹介したい。
モスクワ、7月1日、リア・ノヴォスチ。1930年代、日本の特務機関はウクライナ蜂起軍の過激派を、露極東において手助けしていたものの、やがて日本自らの対ソ攻撃的な計画を妨げる程にそれらの活動を展開させなかったことが、連邦保安庁の沿海地方支部が公開した文書から分かった。
公開された文書には、スメルシが所謂「緑ウクライナ」(備:緑ウクライナ=ウクライナ民族主義植民地)の指導者に事情徴収した記録書のコピーも含まれている。
「緑ウクライナ」は1934年、当時日本占領下にあった満州に、移民したウクライナの民族主義者によって設立された植民地であり、ソ連との積極的な戦いおよび沿海地方のソ連からの分立とウクライナ民族主義国家の設立を目的としていた。この目的を達成するために、ウクライナ民族主義者たちは日本と独の協力を得ようとしていた。
反ソ活動の活発化のために、「緑ウクライナ」は「ウクライナ極東自治体」という反ソ若年層民族主義者組織を設立し、同組織が過激的思考の導入と推進を担った。同じ狙い持って「緑ウクライナ」を1936∼1937年訪れたのは、フョードロフ、マルコフ等「ウクライナ民族主義者組織」のベルリン支局の代表メンバーだった。彼らは、日本軍特務機関および「緑ウクライナ」の指導者だったロイ氏の協力の下、植民地において重役に就いた。これは、1990年代に出されたウクライナ民族主義運動の指導メンバーに対する責任解除却下判決の説明文にも明記されている。
ウクライナ西部出身のフョードロフは、関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関が当時満州最大級産業貿易企業の秋林集団に就けたという「緑ウクライナ」の最後の首席を務めたアレクサンドル・ヴィトコフスキーの証言が残っている。
日本軍特務機関は、ソ連極東を中心に活動する諜報機関であり、関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関は満州において関東軍の司令塔の役割を担っていた。
ヴィトコフスキーは尋問中に、「緑ウクライナ」の首席に任命された経緯について次の様に語っている:『私は1944年4月5日、日本の特務機関第三部部長の前田大佐の命令により、クリャブコ・コレツキー教授から「緑ウクライナ」首席の役割を引き継いだ。断ろうとしたが、前田大佐の断固とした命令があり、引き受けざるを得なかった』。
ハルビン陸軍特務機関第三部は、主にプロパガンダを担当し、満州に移住した移民の間で稼働を展開していた。
ヴィトコフスキーによると、日本から、ソ連との友好関係についての公式声明があり、ソ連領事館との関係が判明されたら日本政府は「無慈悲な弾圧」を加えた。
1944年の春頃、大祖国戦争でソ連に転機が訪れ、日本は対ソの攻撃的な計画を公然と示そうとしなくなったものの、計画そのものを廃止した訳でも無かった。したがって日本は、ウクライナ人の過激派志向を抑圧しなければならなかった。
『前田大佐からは「緑ウクライナ」として如何なる政治活動にも関わらない様に指示を受けた』とヴィトコフスキーが証言している。
『「緑ウクライナ」は、民族的大儀、若者の民族精神の育成に集中し、ウクライナ人の伝統と生活習慣を守り、母国語(ウクライナ語)での教育をする学校の設立と発展と文化的に活動に従事すべき。また偽善活動を通じて周囲を助けるべきと前田大佐から言われ、全く同じ言葉を土井少将からも聞いた』とヴィトコフスキーが付け加えている。
また、ヴィトコフスキーによると『日本政府はウクライナ民族主義者に対して抗議もせず、特に支援もしなかった。同時に、日本の特務機関が定期的に、「緑ウクライナ」の集会に顧問を派遣していた』という。
「緑ウクライナ」にとどめを刺したのは、1945年の日本軍のソ連軍への敗北だった。その後、「緑ウクライナ」のアクティビストたちがソ連の特殊部隊によって逮捕され、ソ連裁判から長期の収容所刑務を言い渡された。そしてソ連崩壊後にも、政治的理由での国家反逆罪を起こした人物として、責任免除が却下されている。
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