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読書記録。~嫌な感情もダメじゃない~

『敏感過ぎて生きづらい人の明日からラクになれる本』
長沼 睦雄・著
永岡書店

高校生でHSP(Highly Sensitive Person)を知って間もなく、書店で見つけて衝動買いした1冊。
前回紹介した本と一緒に買いました。

購入してから先に読み始めたのがこちらでした。
HSPについて漠然と知っていただけだった私も、改めて色々なHSPの特徴に共感しながら食い入るように読んだ記憶があります。

今回改めて読み直して、嫌な感情を抑え込んできたことを発見しました。
さらに、その嫌な感情の背景には自己嫌悪が潜んでいるということにも。

良心的ではあるけれど…


良心的なHSPであっても抑圧され否定された心の闇や陰が存在し、まれにそれが出てくることもあります。
p.27

HSPには、その繊細な気質から良心的な側面を併せ持っています。

だからといって、他者に対してネガティブな感情を全く抱いていないかというと、そうではない。
ただそれを表に出していないに過ぎないのです。

なぜなら、ネガティブな感情を表に出してその場の空気が重くなったら居心地が悪いから。
ましてそれが自分の言動のせいだったら、その責任感には到底耐えられないのです。

中学生くらいまでは堂々と友達に愚痴っていた私も高校生になってからはあまり言わなくなり、現在ではほとんど言わなくなりました。
というよりかは、言えないのです。愚痴を共有する相手がいない

嫌いな人は大抵、近しい人
だからこそ、少しでもネガティブなことを言及すれば話し相手に申し訳なくなって、嫌いな人に関する言及さえできなくなっていったのです。

でも、嫌いという思いまでもを否定しなくてもいい
嫌いになる自分が悪い、と思い込む必要はないのです。

苦手な人

私が苦手意識を持つ人は大抵、自分に似ている人です。
調べたところこれを「同族嫌悪」と呼ぶらしいのですが、この本にもそれに関することが書いてありました。

誰か特定の人に対して、はっきりとした原因もなく不快になったり、イライラしたりする場合には、自分の中にある「こうありたくない」と抑え込んでいる影の部分をその人の中に見ているのです。…その人が好きでないなら、無視して通り過ぎればいいわけなのに、その人と同じような自分が「影」として自分の中に隠れているので、どうしても引っかかってしまい、否定的になってしまうのです。時にはこの「影」が暴走して、その人を傷つける言葉や態度をとってしまうことも起こります。
p.50-51

私には幼い頃から、「自分は問題児だ」という自覚がありました。
実際は本当に問題児で、宿題は出さない、自分に都合が悪いと暴れ出す、先生の言うことは聞かない、すぐ泣く、感情のコントロールが効かない…当然のように、友達は離れていきました。

だからといって支援学級に入ったり、支援の先生と何かしらの接点があったかといえば、そのような経験はありませんでした。

というのも学校の成績は特に問題なかったため、ただ「人間関係が上手くいかない子」「感情のコントロールが苦手な子」とだけ思われて、特別な援助は必要ないと判断されたのだと思います。

だから、支援を受けている子を見るとどうしても、「私には何もしてくれないの?」というある種の羨ましさや自分への劣等感を抱いていました。

今思い返せば、問題行動がエスカレートしたのは、生きづらい私を助けてほしくて注意を引きたかっただけなのかもしれません。我ながら、ひどい子供時代でした。

問題行動が落ち着いてきた時期、昔の自分のように落ち着きのない人や感情表現が苦手な人を見かけると、あまり良い気がしないのです。
しかし自分ではそれを明らかな差別だとも思い、そうした嫌悪感をどこかにしまい込んでいました。
それは今になっても同じかもしれません。

この本はそんな自分が抑え込んでいた負の感情を見直させてくれました。

自分の心に問題があると解釈し、それが自分の影の部分となっているから、
過去の自分と同じような境遇にある人を見ると、見ていられない、近づきたくない、と感じてしまう。
それは決して不自然なことではないのです。

自分の中に隠れている「影」は、否定するのではなく、それを認め、向き合い、対話をして受け入れていくとラクになっていきます。
p.51

心理学を学んでいると、家庭や学校などで適応が難しい子に対してどう接すればいいのかを学ぶことがあります。
1人1人の特徴に合った対応を。
それは、誰にでも当てはまることのようにも思えてきます。

まだ気がついていないだけで、私には私に合ったやり方がきっと存在するように。
私は生きづらさを抱えた過去と現在があることを認めながら、「それなら今、どうしたい?」と尋ねてみる。
それが今の私に必要なのだと思いました。

通院と対面授業がついに重複してしまい、やむなく合理的配慮を受けることになりました。
今はコーディネーターと相談中。

ただ拒食症のための通院と対面授業が被るから、授業内容の情報提供をしてほしい。
それだけが私の要望です。

私の症状ごときで配慮なんて受けられるのかと疑念を抱きながら、それでも通院を理由に授業を欠席するのは絶対に嫌だ、1度でも休めばついていけなくなるのが怖い、という執着心も捨てきれずに相談しました。

もしかしたら、拒食症以外の診断もつくかもしれない。
それはあくまでも、配慮申請のための建前に過ぎないけれど。

でもそうやって診断名が増えていって、改めて症状として自分の生きづらさと向き合えるようになったなら…
それは幼かった自分がずっと、10年以上前から求めていたことなのではないかと思います。

だから今の私には、自分の「影」と向き合うチャンスがあります
向き合えたらきっといつか、今苦手としている人への見方が変わるのかもしれないと淡い期待を寄せています。

自分の中にある影を認め、向き合い、対話をして受け入れていく。
そんなアプローチを他者に行うことができれば、私のように悩む人の助けになれるのかもしれないと想像しました。

配慮申請の時に話題となった話

拒食もピークでBMIもおそらく診断時くらい低かった時、それでも根性で乗り切ることができてしまった
授業も休むことは1度もなかったし、体育の授業も普通に受けることができた。
つまり、拒食症で衰弱しきっていた自分の身体状態に気がつかなかった。感覚が麻痺していた

それも、もしかしたら敏感な気質を周囲にばかり向けていて、自分のことを顧みる余裕が無かったからかもしれないと気がつきましたが、それはまた別の機会に。

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