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星野君の二塁打

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小学校の道徳の教科書に長年採用されてきた「星野君の二塁打」という教材が削除されたことが話題になっています。

お話の内容は以下のとおりです。

星野君は少年野球チームの選手。ある公式戦でのチャンスに星野君に打順が回ってくる。
ここで監督が出したのは、バントのサインであった。
しかし、この日、星野君は打てそうな予感がして反射的にバットを振り、結果二塁打を放つ。この二塁打でチームは勝利し、チームは選手権大会出場を決めた。

だが翌日、監督は選手を集めて重々しい口調で語り始める。
チームの作戦として決めたことは絶対に守ってほしい、という監督と選手間の約束を持ち出し、みんなの前で星野君の行動を咎める。

『いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ』『犠牲の精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ』などと語り、次の試合に先発出場させないことを宣告する。

ウィキペディアによると初出は1947年で、この時には最後の監督の言葉に対して星野くんが涙を見せながらも「異存ありません」と応えるシーンがありました。
その後、教科書に採用される課程で内容の変更が行われたようです。
教材の狙いとしては、「監督やチームメイトとの約束を守るべきである」「集団の統制を守って自己犠牲の精神を発揮すること」などがあり、当初の「異存ありません」と応えるところは「男らしさ」がテーマとなっています。

この内容が非常に日本的であると言われていて、「ルールを守る」「上司の指示を受けたことを守る」「守れなければ罰則を受ける」といったことが、悪い形で全て出たのが2018年の日大アメフト部のタックル事件です。
事件直後からネットでは「星野君の二塁打を思い出す」という書き込みが多く見られました。
また、奇しくもこの年から教科外活動であった道徳が「特別の教科」という取扱いになりました。

この作品が戦前のものであるなら賞賛される作品なのだと思います。
そして、現代だと問題や課題を感じる人がいる作品となっています。

道徳で教えられたりテーマとされることは、その国や地域、その時代、その文化の中で良しとされるものが選ばれます。
つまり国や地域が変わったり、時代が移り変わったり、文化が異なるところに行けば、その道徳は尊重されなくなります。
一方で宗教を考えてみると、古代のインドや中東で生まれたものが、地域も時代も文化も超えて、人々に共感されます。

教育基本法の第9条では

第9条 (宗教教育)
宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。
2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

となっています。

このため、公立学校で「特定の宗教のための宗教教育」を行うことは認められていません。
しかし、道徳で子どもたちに伝えられている内容は、国にとって都合が良い情操教育、ある意味、道徳という名の宗教の教育を行おうとしているように感じられます。

宗教教育は、公立学校では認められていませんが、私立学校では多くのところが宗教教育を行っています。
宗教教育を行うと、国に都合が悪い人間が出来るのでしょうか?
道徳教育は宗教教育よりも、人間形成の面で大きな効果を発揮しているのでしょうか?
宗教教育を否定しながら、わざわざ道徳を教科にしたことに今更ながら何かあるのでは、と勘ぐってしまいます。

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