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風琴のお告げ #2/4



「今からちょうど十年前のことです。わたしはドイツのさる高名な文化人類学者の弟子のひとりとして、あのフィールドワークに参加したのでした。彼の名誉のためにも、ここではシュミット博士、と呼ぶことにいたしましょう」
 そう切り出して、先生はパイプのボウルを二、三回鼻に擦り付けた。それはパイプを吸うときの先生のクセのようなもので、そのように時折鼻の脂を塗っては磨いて光沢を楽しむふうだった。

「『風の人』についての詳細な記録をシュミット博士は残されたわけですが、ある事情でその大半は失われてしまいました。弟子のわたしの手元には、『風の人』の言語に関する論文の、それも草稿の一部のみが残された。それを頼りにお話しするわけですが……」
「ある事情って、なんでしょう」
「まあ、そう慌てずに。夜は長いんですから」
 コーヒーはいかがです、と博士は聞いた。わたしは黙って頷くと、本棚の隅のデロンギのスイッチを入れに立った。先生はもっぱらアメリカンがお好み。わたしはいつだって先生の好みに合わせるだけ。

「部落のまんなかに、それはそれは背高な物見櫓が組まれていましてね。セルバの高木をこどごとく見下ろすくらいの高さの。それへ、日の出の瞬間と日の入りの瞬間の二回、雨や曇りの日も欠かさず、まじない師が登って、樹冠に渡る風の音を聞き分けようと、ときに一時間を超えて、こうやって耳を澄ましてじっとするのが習いでした」
 そう言って先生は、燕の巣のような形を手のひらで作って、それを両耳の後ろにあてがって、わたしのほうへ向けた。
「朝に聞くのは精霊の希望、夕に聞くのは精霊の不満でした。風の音は精霊の声であり、それをまじない師が解読して、地上の人々に伝える。彼らは文字を持たない民でしたが、実に豊かな言語体系を構築していました。石を叩いて出る音は石のことば、木を叩いて出る音は木のことば。早瀬の音も、木の実の水に落ちる音も、あるいは草葺の屋根を走る驟雨の音も、みな水のことばとして必要に応じてまじない師に通訳され、長を通じて民に伝えられた」
 先生の卓上にコーヒーのカップを置きにいく。濃紺の釉のかかったのが先生ので、茜色の釉のかかったのがわたしの。かつてひとりでした近畿の旅の途中、滋賀に数日滞在してロクロを回してこしらえ、数ヶ月を経て焼き上がり送られてきたものを、先生はとても気に入ってくれた。先生の肩にそっと手を置くと、その手の甲に大きな手のひらを重ねて、先生は応えた。

「テントのなかでは博士とわたしは背中合わせに座って、書き物に余念がなかった。明かりといえば、二人の文机のそれぞれの上に昼夜を問わず石油ランプが点るばかり。先生は手遊びにハーモニカを吹いた。どこへ行くにも首から下げておられましてね。で、『風の人』のまじない師が風の音として読む音の音階を探ろうと、辺り憚るごくごく小さな音を立ててあれこれ試しているとき、テントの入り口のところで誰かが息を詰めてなかをうかがう気配が濃密に漂った。とうからそれはまじない師だとわたしにはわかっていたのですが、博士が咎めなければやり過ごそうとの構えでした。気がついた博士は、まじない師をなかに招き入れた。ハーモニカに興味を示すのは明らかでした。首から外してそれを取らせ、それを取ったまじない師は、なにか熱いものでも渡されたように、指先ばかりで支え持って矯めつ眇めつしましてね。吹いてみろ、と民のことばでうながすと、はげしく首を振る。これを譲ってほしいとまじない師は出し抜けに言った。そのために生娘を三人用意していると言われたときのシュミット博士の困惑ぶりといったら! ディーセントでジェントルな人柄として知られたシュミット博士です。彼は憮然として取り合わず(のはずです)、それはくれてやると言った。そして思えばそれが悲劇の始まりでした」
 先生はここで言葉を切った。コーヒーをひと口すすると、なにやら遠い目になって、思いに沈むようだった。ゆっくりと小鼻の脇をパイプのボウルで掻いている。
「これが例のハーモニカ」
「そうです。それです。ちょっと吹いてごらんなさい。口はつけずに。口元から少し離して、息を吹きかけて」
 ふぁん、と場違いに明るい音が立った。
「それは、『遠方から』という意味です。遠方から、どうしましたか」
 博士はからかった。
「その翌朝、いつものように物見櫓に立ったまじない師は、ハーモニカを持った手をおもむろにこうして頭上にかざしましてね。やがて風をとらえて、時ならぬ音楽が届けられた。そのハーモニカでは出すことがかなわないはずの、微妙な音階が細かな糸の綾のように縒り合わさって、見守る民の頭上を小さな川のように流れていった」
「それは、この世のものとも思われない、美しい音楽で」
「いかにも。あらゆる宗教を超え、誰もが天界の存在を想像せずにはいられないような、それはそれは美しい音楽でした」

(つづく)

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