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家憑 #3/4





 管理会社の事務所は、こじんまりとしたものだった。

 入口から見て正面右手奥の壁を背に大きな机が据えれられて、そこに髪の錆びた恰幅のいい中年女性が座っていた。机にはあまたの花の鉢植え。還暦前後といったところか、HERMESのカレの柄に負けない旺盛な感じがみなぎっている。入口の並びの壁奥に、大判のポスターなども印刷可能な特大の複合機がしつらえてあり、その横で三十後半と思しき細身の女性がパソコンをいじっている。全身黒づくめで、おそらくはAgnés b.。ほかにスタッフといって、坊主頭に細縁メガネ(ic! berlin)の若い男の、ベージュのチノパンに格子縞の開襟シャツ(TOMORROWLANDあたりのセレクト品)といったラフな出立ちしたのがいるばかりで、これが真丘夫妻を認めると、やおら腰を上げ、彼の仕事机の並びにある客用カウンターに案内した。腕にはめたる時計はOMEGAのスピードマスター。

 ご時世柄、カウンターは向こうとこちらがアクリル板で仕切られてあった。
 挨拶もそこそこに、男は開口一番、「とりあえず、なにか質問とかあります?」と訊いてきた。説明したいことがあるからと呼び出されたのはこちらだから、質問があるかと振られる筋合いではもとよりない。あるいは、古民家の現実も知らず、賃料の手頃さと部屋数の多さに目のくらんだズブの素人の品定めをするための質問かと早合点した真丘は、昔から田舎暮らしに憧れていて多少不便さの感じられるくらいが希望にかなうこと、庭を整備して菜園にするのが今から楽しみであること、瓦屋根越しに聞く雨の音はどんなだろう、庭の木々を撫ぜる風の音はどんなだろうと想像を巡らすだに至福であること、そして、いずれ表札の隣りに「瘋瘋亭」と記した庵号を手製の陶板なんぞでこさえて掲げるつもりであること等々、問わず語りに語るうち、妻の手がそっと腕に添えられて、真丘は我に返った。公の場面で妻が彼の身体に触れてくるのは、彼の言動が行き過ぎるときと限られた。明らかに躁に駆られていた。それと知らされて、それでも不服を隠せない真丘に対峙して、
「そうなんですね」
 と相槌打った男の口ぶりには、いいたいことはそれで全部かと軽く往なすような無関心が露呈していた。愛想笑いひとつ浮かべるでもなく、男はあくまで事務的に本題へと移る。

 断熱材や防湿剤を使用していないから、夏は湿気がひどく冬は底冷えがすること、耐震については、法改正後の基準を満たすものではむろんないこと、バス通りに面しているので、外の音を気にする人もあること等々、すでに不動産屋で聞かされたことばかりである。

「今入っている工事についてですが」
 真丘たちにとっての本題は、ここからである。
「洗濯室ですがね、あすこはどうも近年建て増しした部分のようで、母家とのジョイントがどうしても経年劣化して隙間が開いてしまうんですね。そこへどうやら小動物が入り込んで、住みついたようなんで」
 それを聞いた刹那、心の在所と勝手に仮想している部分よりやや左下ら辺のその奥に、ぼっと音を立ててゆらめくほむらが感じられ、たちまち首から頭の先へ火照りの走り抜けるのを真丘は知覚した。
「なにが住みついたかはわからないです。隙間の周辺に罠を仕掛けたり殺鼠剤を撒いたりして対処したんですが、とうとう捕まらずじまいで」

「子どもたちは、どうした」

「はい?」

 即座に妻の手が真丘の腿の上に来て、鷲づかみする。
「子どもたちは」
「ふたりは学校、ひとりは幼稚園です。今日は平日だから」
 そう真丘の耳元にささやいてから、
「ごめんなさい。この人、ここのところ仕事が立て込んでいて、ちょっと参っているもので。曜日の感覚もすっかりなくしていて」
 と取りなした。
「そうですか。それは大変ですね」
「いえ、大丈夫です。どうか、続けてください」
 男はちらと真丘をうかがってから、妻のほうへ正対するよう居住まいを正した。
「承知しました」
 男は再開した。
「で、庭に枇杷の木が植わっていたんですけど、それに生る実が目当てなんじゃないかとなりましてね。さっそく木を切ったところ、小動物の気配もぱたりと消えまして。現在、屋根裏をきれいに清掃した上で、隙間をしっかり埋める工事をしている最中でして、こちらが終わり次第、ご入居いただける形になります」

「枇杷の木を切った? なんてことを!」

 くわと開いた口で男を頭から丸呑みして皮膚をゆっくり溶かし肉をゆっくり溶かし心ゆくまで髑髏をしゃぶり尽くして挙句に奥歯でかりっと頭蓋を噛み割って脳髄を啜ってやろうかそれとも首筋を鋭い門歯で甘噛み何度も繰り返してから一気にかぶりつきぐるんと全身回転さして首をねじ切ってから切り口にタライでも据え足のつま先からふくらはぎへふくらはぎから腿へ腿から腹へ腹から胸へ胸から首へと丹念に踏んで残らず血抜きしてひと息に飲み干してやろうかなどと内奥に噴き上がる妄念のほむらの虜となり果て、生々しい地獄絵図が今まさに目の前に展開しつつあり、つるりと血に足を滑らす感覚を得てけたたましく笑い声を上げるそのいっぽうで、ああ、今俺は妻に手を引かれて退場するのだと、わずかに残った人間の部分が真丘に知らせていた。



 突然激昂すると、「なぜ枇杷の木を切った」と、二たび声を荒げて詰問したという。

 真丘には身に覚えがなかった。まざまざと眼前に見たvision については、真丘は語らなかった。妻は病院に行こうといい募る。いや、大丈夫、一日ぐっすり眠ればあんなことは二度と起こらない。そういって、彼はそれから三日、有給休暇を取った。じっさい丸二日間、しまわぬ寝床でごろごろと過ごした。大丈夫、大丈夫、と己に言い聞かせながら、そのじつ、内奥のほむらは依然としてゆらゆらと仄めいていて、真丘を駆り立てて止まなかった。駆り立てるといって、何に? 真丘には知る由もない。

「もう無理だね、あの物件」
「何をいう。あれはぼくらの家だ」
「どうして、そんなこと。あんなことになったら、貸してくれるものも貸してくれなくなる。あなたを責めてはいけないとは、わかってるんだけど」
「何を心配することがある。あれはぼくらが住む権利のある家だ。住んでよいかどうか、他人が決めることではもとよりない」
 妻が深い溜息を吐く。それから両手で顔を覆って嗚咽する。おのずと父親から遠ざけられた子どもたちは、母の嗚咽を壁越しに聞いておびえた。

 そんなことが夜ごと繰り返された。

つづく

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