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家憑 #2/4


 日曜の昼過ぎに妻子を連れ、不動産屋立ち会いのもと、その古民家を内見した。三人の子どもたちにはサプライズのつもりで事前になんとも言わなかったのだが、それが裏目に出たものか、子どもたちは終始やけに神妙だった。
 思いのほか玄関は広く、玉石を敷き詰めて濡れた感じの三和土も風情があり、上り框の材もたしかなものだった。そしてなにより、重要文化財に指定されるような由緒ある◯◯邸でしか嗅げないような古い家独特の匂いに、真丘は感激に近いものを覚えた。妻の反応も上々である。
 そのいっぽうで、子どもたちは不動産屋に内履きを勧められても、いっかな靴を脱ごうとしない。「探検しておいで」とうながしても躊躇っている。不動産屋が気を利かして明かりを灯すと、子どもたちは漸う父親のあとについて家に上がり込んだ。
 明かりを灯されても暗いは暗い。照明はなんとかしなきゃだな、などとすっかり住む気になって物色する真丘。ガラス越しに明るい庭を目にすると、憑き物の落ちたように子どもたちのこわばりも氷解して、この部屋がいい、あの部屋がいいなどと、口々にいい始める。
「この部屋はどうだろう」
 真丘がいうと、小学三年生の長女がかぶりを振った。
「だって、お札が」
 見ると、漆喰の壁に埋もれた柱の高いところに、八幡様の札が貼ってある。黄ばんで相応に古いものとは知れた。それを見上げる親子のかたわらを不動産屋は素通りして、なにもいわなかった。真丘もなにも聞かなかった。たしかに前の住人が持て余してあれを剥がさずにおいたとして、管理する側も持て余すだろうな、くらいに思うばかりだった。
 その部屋は、壁の片側が全面収納になっていて、押し入れはもとより、天袋も地袋もあって、風通しのためだろう、襖がすべて外されて内を晒した様相はなかなかの壮観だった。父娘して見惚れていると、やがて娘が手を引いて、
「なにかいるね」
 と父親に耳打ちした。

 外も内も良い、と真丘の心はほぼ決まった。欄間などにちょっとした細工を見つけては、妻はかわいいかわいいと頻りに愛でた。子どもたちもじき走り回るようになった。全員一致の巡り合わせもなかなかないものだと満足しかかった矢先、家の奥の一画に著しく損傷した箇所を認めて、真丘は激しく動揺した。四畳半ほどの間が庭に出張っていて、そこの天井板が一面剥がされて、藁やら礫やらを含んだ黄色い土壁が剥き出しになっている。床には一面青のビニールシートが敷かれている。動揺を隠して、「工事中ですか」と真丘は不動産屋に訊いた。訊いていた。見ればわかること。我ながらおかしなことを訊くとは思いながら、訊かずにおれなかった。
「そうですね」
「なぜ」
「さて、どうなんでしょう。お調べしておきますね」
「なぜ、わからない」
 その場の空気が一瞬にして変わるような、険のある訊き方になった。
 凄むような。
 不動産屋がにわかに目を丸くする。ちょっと、と妻が真丘の腕に手を添えた。
「ごめんなさい。冗談です」
 なんとかそう取り繕えるくらいには、高揚とも激昂ともつかぬ心の騒擾は止んでいた。苦笑する不動産屋を見て、気の病を疑われたかも、と思わずにはいられなかった。背筋に冷たい汗が滲んだ。
「どうしたのよ」
「いや、自分でも、なにがなんだか……」
 子どもたちが庭にまわっていた。梅の実が足元に大量に転がっているのを見つけて驚きの声を上げる。蚊がまとわりつくといっては悲鳴を上げる。戸のガラス越しにこちらへ向かって手を振る。屋根の露台に通ずる階段を見つけ、早速登ろうとする長男を、金切り声で制する妻。口を尖らせて応ずる長男。
「しっかりしなくては」
 そう真丘を叱咤すると、妻は玄関を出ていった。
 家うちにひとり取り残されたと思いきや、隣室から壁越しに「大丈夫ですか」とうかがう声がして、不動産屋の気の利かなさに真丘は心底苛立った。収納の襖という襖が取り外された部屋を迂回して、真丘は玄関を出た。
 庭から子どもたちの黄色い声が立つ。不安げな妻の目に迎えられながら彼女の横に立った真丘は、片手で陽をよけながら、歓声のほうへ顔を向けた。屋根の上の露台に見知らぬ若い男が立っている。そのまわりではしゃぐ子どもたち。
「足場はしっかりしているようですね」
 男はいった。
「あれは誰だ」
 そう耳打ちして、妻は目を剥いた。
「不動産屋さんじゃない。ちょっと、ほんとうに、どうしちゃったのよ」
 そうか、あれは不動産屋か、だとすると、あれは不動産屋ではなかったわけだ、と独り言のようにいって真丘は苦笑した。妻がどのような視線を彼に注いでいたかについて、後日も真丘はつまびらかにしない。


 その古民家をお借りしたいと申し出てから数日して、不動産屋を通じて物件の管理会社から、二、三ご説明したいことがあるので、事務所のほうまでご足労願えないかと知らせてきた。
 出向く当日、わたしも行きますといって妻はきかなかった。妻と連れ立って真丘はバスを乗り継ぎ、彼らの住まう界隈から最も近い繁華街に向かう。
 朝から曇天で、じき篠突く雨になった。
 車中、妻の耳元で真丘はささやいた。
「事故物件だろうか」
「もしそうなら、不動産屋からあらかじめ説明があったんじゃない」
「前の住人はどうでもね、その前にさ。三年前に大幅にリフォームしたというし」
「そうだとして、こちらから聞きたいとは思わない。わたしは気にしないし」
「ぼくもだよ。もっともここ数年、あの界隈で陰惨な事件が起きたなんて聞かないから」
「やめてよ。余計なこと、調べないで」

 駅前の、往来の最も激しい通りに面した雑居ビルに事務所はあった。古いビルだが、それなりの賃料はするはずで、繁盛しているとは知れた。不動産屋もこの管理会社をベタ褒めしていた。リフォームを兼任するらしく、あの会社がリフォームした物件は地元でも一番の信用度だと、内見の際、不動産屋は自分のことのように自慢した。古民家も、三年前に管理がこの会社に移ってから全面的にリフォームされた。ひと月前まで住人がいたにしては荒れ放題の庭だったが、たしかに内装は瑕疵ひとつなかった。あるとすれば、例の柱のお札くらいか。それにしたところで、さして深い意味はあるまい。
 真丘のなかでやや神話化された感のある管理会社だが、いずれ不動産屋の口車のひとつに過ぎまいとも思うのだった。それにしても、こうして改まって呼び出されてみると、不安は不安。何を言い渡されて最も堪えるだろうかとおのれに測ってみる。今一番の不安は、保証会社の審査を通るか通らないかである。勤め先に問題はないか、年収に不足はないか。内見の際に真丘が豹変したについては、飛び込みの不動産屋ならともかく、今住むアパートも世話してもらった馴染みの店だから不問だろう。

 事故物件でもかまわないとなれば、もはや恐れるものなど何もないようなものである。

つづく

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