見出し画像

三毛猫の通り道

 三毛猫の大半はメスである、という蘊蓄が方々で聞かれたものである。テレビを筆頭に、ネットでもカーラジオでも、そして噂話に興じる誰彼の口の端でも。

 なんでも猫の毛色を決定する遺伝子がX染色体に起因するからとのことで、なるほど、メスはX X、オスは X Y……ってはるか昔に学んだ気もする……が、ボロが出てもつまらないので、原理的なことはさておき、お決まりの台詞は、「三毛猫のオスが生まれる確率は、三万分の一なんですって」。

 調べついでに三毛猫は古くから縁起物とされ、招き猫は大半が三毛猫であるとか、南極観測隊の船にはゲンを担いで三毛猫のオスが同行していたとか、気を惹く記事をいくつか見つけた。そこからネットサーフして、三が吉数なのは陰陽五行説に奇数は陽、偶数は陰とあるからだと知り、それで五節句も奇数のゾロ目なのかと納得するわけだが、それなら中国の吉数は相変わらず奇数なのかと調べてみると、これが彼の国の最高の吉数は発展の発に通ずる「八」で、対を重んじる文化は偶数をこそ顕揚するらしく、そうなると祝儀の枚数など「割り切れない」→「別れない」などと独自の解釈を加えて奇数にこだわる日本人とはいかにも保守的とも思えてくる。

 それはともかく、我が家の庭を、最近三毛猫の野良が縄張りの一つに加えたらしい、というのが話の発端で。

 妻が二階のベランダで洗濯物を干す。あるいは家族の布団を干す。あるいは信楽を模した睡蓮鉢に屈んで冬のメダカを数える。その折りにひょいと庭を覗くと、目が合うのだという、件の三毛猫と。三毛猫はしばらく見上げて、それから植木鉢に溜まった水をチロチロ飲むなどしてから、しなりしなりと庭を横切って、隣家との境の石塀にさっと登って、また最後に振り返ってから、消えるのだという。

 我が家の庭に三毛猫が通るようになったのだから、運も向いてくるかな、などと浅ましいようなことを思いながら妻の話を聞いているが、「我が家の」という言い方は戒めなければ、と反射的に肩をそびやかしていて、妻にしてみれば夫のこの不意のリアクションはいかにも意味不明だったろう。というのは、今年の正月休み、職場の観葉植物が冬を越えられそうにないので、素人考えから数日陽気に当てれば元気になるかもと家の庭に持ってきて日当たりの良い場所に鉢を置いておいたところ、同居の老父が気を利かせたつもりで枯れかかったものを根こぎにして捨て去り、新しい土を入れ替えて得々としているものだから、さすがに抗議すると、人の庭を勝手に使っておいてなんだ、と逆上され取りつく島もなかったのである。我々の庭、ではなかったのか、と寂しまれたのも束の間、意地でも庭には足を踏み入れまいと決めこむが、年寄り相手にムキになるのも笑止だし、こちらが家を出ていけばいいものの、それはそれでひと悶着ありそうだし、なんといっても老父老母はなにかと妻を頼みにしていて、気がつけば身動きの取れない状態になっているのだった。

 老父老母も庭を通る三毛猫のことはとうから気がついているらしく、それを喜ぶかと思ったら、さにあらず、忌々しく思っているのだという。庭の方々にフンを垂れる、尿を撒かれる、しまいには物置小屋の下やら濡れ縁の下やらに仔を産まれて虫が湧く、と眉根を顰めるのらしいが、子どもの頃から猫を飼ってきた妻に言わせれば、猫はそんな不潔な生き物ではない。どういうわけか猫を毛嫌いする二親だったから、もっぱらこちらは犬派で育っていて、しかし犬にしても、夏のさなかに庭で死んでいたのを休暇中の父親が見つけ、子どもたちが遊びから帰ってきたときには、保健所の軽トラに引き取られたあとだった、で、自身の手際の良さを自慢こそすれ、飼い犬との最後の別れをさせてもらえなかった子どもたちの砂を噛むような思いにまでは想像の至らない父親を憎むというか、呆れるというか、あれが親を軽侮することの始まりだったかもしれず、以来犬を飼わずの云十年なのだから、犬派どころではなかった。

 歳を追うごとに童女返りしていく老母。睦月如月とメジロのつがいの庭に訪うことの多いのはとうからの風物詩だったが、老父が柿の木の枝を切り過ぎて実をつけなくなってから、とんと姿を見せなくなっていた。オナガも、そしてヒヨドリさえも現れず、熱に浮かされながら聞く彼らの鳴き声はまた格別だったのが、ここ数年は発熱に倒れることがあっても、戸外はシンとしていて物足りない。それなのに、メジロが来ると言って老母は残飯を庭に撒き出したという。あるいは蜜柑や林檎のカケラを土ばかりになった鉢の上に楊枝で刺しておく。それでメジロは再び見られるようになったのかと問えば、その餌に誘われて来るようになったのがほかならぬ三毛猫なのだと妻は言った。

 老父の「片付け癖」に加え、DIYならぬ素人工作も、かねてからの悩みの種というか、軽侮の対象で。生来ケチの上、慢心ときているから、家のなにかが故障すれば本業に委ねるなどもってのほか、素人工作で済まして「僕ってすごいでしょ」と来る。器用でもなければ美的センスに長けるわけでもなく、その使い勝手の悪さと見栄えの悪さを家人は黙って堪えるしかない。なにかを組み立てるときにも説明書を読むなどせず、いつでも見切り発車だから数個の部品が最後に余ることになって、家人を不安がらせる。そこかしこに不具合の生じている家ではあるが、なにせ「人の庭」と啖呵を切るくらいだから、下手な手出しは憚られる。で、筋向かいの家に空き巣が入ったとき、庭があまりに無防備だからなどとよくわからない理屈を捏ねて、車庫のスペースと庭との境に細板の柵を渡して鍵付きの扉まであつらえたが、車庫には往来と隔てる蛇腹のアルミの門扉が元々あるし往来に向けて監視カメラを二台取り付けた矢先のことでもあり、庭のなかの柵の意味は誰もが図りかねた。結局車庫と庭との出入りに自ら障害をこしらえたようなもので、鍵は終始かけられず、一夏を越してからこちら、つる草どもの格好の這い上りを提供するに至っている。

 老母がメジロのために用意した餌を三毛猫が失敬する。そのことを老母は知らないし、妻も知らせない。さらに三毛猫は車庫と庭の仕切りとしてある例の柵を爪研ぎに使うのらしい。それを老父は知らないし、妻も知らせない。鉢の水を飲み、かしこに撒かれた残飯を食らい、柵で爪を研ぐ。一連のルーティンをこなしてその三毛猫は堂々とした足取りで庭を横切り、ひょいと石塀に飛び乗ると、必ず一度振り返ってから、消える。

「ああ、あのノウゼンガズラの這い上り」
「そうそう、それ、そこで三毛猫がガリガリっと爪をさかんに研いでいるのがなんだかおかしくって」
 そう言って妻は笑った。
 ガリガリっと言いながら両手で宙を掻く妻の仕草こそおかしくて、
「もう一回やってよ、それ。そのガリガリ」
「ガリガリ、ガリガリ……」
 言いながら、妻は数回宙を掻いてみせ、最後にこちらを振り向いて、それはみごとな悪辣な猫顔をしてみせた。

 今朝は常にないぬくとさに目が覚めた。老父と老母の声がする。時折妻の声が応えるようである。三人して庭に下りて、なにかを話している。三毛猫の話かもしれない。老父が柵につけられた爪の研ぎ跡を見咎めたのかもしれない。しかし不穏な気配は微塵も感じられない。床を這い出して耳を澄ましていると、もう春もすぐそこね、と老母が言っている。蝋梅が咲いてました、と妻。まあ、蝋梅。どんな花でしたっけ。黄色い花。これが咲いて、梅が咲いて、イヌフグリが咲いたら、もうすっかり春です。フグリって、金玉か。やめてよ、お父さんったら。蝋梅が咲いてるの、すぐそこの植え込みですし、散歩がてら見に行かれたら。そうね、それもいいわね。……

 三毛猫の通り道に風が渡り、その風に、はや花の香のまぎれる如月初日、寝坊の朝の一景である。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?