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モチダ夫人 1/2

 今年は幼稚園でのクリスマス・パーティーは行われないことに決まったと、木曜日の朝にグルーブLINEで通知が届いた。理由は添えられていなかった。実施一週間前というタイミングでの突然の告知だった。「えー、マジ、どうして?」「何かあったん?」「子どもたち、超楽しみにしてたのに」等々、ママたちからの返信がいっせいになされたのも当然で、なのに発信元のモチダ夫人はその日一日既読スルーを貫いたのだった。

 翌日の昼過ぎにスマホを覗いた亜紗美は、LINEのバッジが「5」と表示されているのを認めた。ついぞ見ない数字に咄嗟に入院中の義母のことが頭をよぎったが、昨日のグループLINEの再燃かとも思い直す。あながち予想が外れたともいえず、すべて優斗ママからだった。


-お仕事ちゅう失礼します。てか、在宅だよね。在宅だと、時間選ばないからいいよね。在宅、うらやましい。

-クリパ中止の件だけど、何か知ってる?

-どうやら幼稚園にクレームが入ったみたいなんだよね。それでモチダ夫人が犯人探しに躍起になってるみたい。

-近いうちモチダ夫人から個人的に連絡がいくかもだよ。璃子さんが疑われてるらしいんだよね。

-亜紗美さん、璃子さんと仲良かったよね?


(在宅在宅って、バカにしてんのかな……)
 亜紗美は苦笑しながらノートパソコンを閉じた。優斗ママはローカルチェーンのスーパーの組合関係の仕事をしていて、口を開けばパートさんらを束ねることについての愚痴がとめどもなく溢れでる。どんな話題も労使関係のアナロジーとして語るので、モチダ夫人から陰で「我田引水女」と揶揄されているのを亜紗美は知っていた。

 璃子さんというのは、クレアちゃんのママで、クレアちゃんが水尾の一番の仲良しだったから、おのずと母親どうし接近するにいたった。璃子さんは、顔見知りとはちゃんと挨拶するしけして印象の悪い人ではないのだが、いつもジーパンに白のワイシャツ姿で化粧っ気は皆無、それは入園式のときも変わらずで、小柄ながら背筋はシャンとしてどことなく活動家めいた雰囲気があって、じっさいイエス・ノーのはっきりした人だったから、女たちは敬遠するというより気圧される感じで、結果として園内で見かけるときは集団から離れてたたずむのが常だった。
 それに璃子さんは、ほかのママさん連中とはひと回り以上年嵩なのだった。年嵩という点では亜紗美も同じで、この幼稚園との縁が長男を入園させた六年前に始まるから、古株どころか最古参なのだが、それゆえにこそ煙たがられるというか、彼女もまたメインストリームから外れていたし、それはそれでかまわないというスタンスだったのである。

 声をかけてきたのは璃子さんからだった。午前保育でバスの送迎のない日で、娘が舎から出てくるのを待って立っていたすぐ後ろに、璃子さんがいたのを亜紗美は気がつかないでいた。運動会だったかなんだったか、なにか行事に関する事務的な質問で、こちらは向こうを当たり前のように知っていても、向こうはそこで初めて亜紗美が水尾のママであるのを知った次第で、いつも娘が仲良くさせてもらっています等々、とおり一遍の極めて日本式な挨拶を交わしたものだった。
 以来二人が並んで立つ姿が園内ではしばしば見受けられるようになって、年嵩のハブ同士がくっついて……とかなんとか、口さがない連中ならいいそうなところである。しかし年齢とは関係なく、場の空気を読み違えないことに嬉々として邁進するようなさもしい性格ではもとよりなかったから、ケータイ番号の交換はしても(璃子さんはLINEのアカウントを持っていなかった)連絡し合うことは皆無で、直接の会話も事務的なものに終始した。
 それがかれこれ一ヶ月前に、璃子さんからふいにショートメールが届いたのだった。土曜日の昼過ぎに亜紗美は気がついて、行楽先から帰宅する車のなかで運転する夫にその旨告げた。
「璃子さんから珍しくメールが来たんだよ」
「璃子さんって。ああ、黒人の奥さん」
「アフリカ系の旦那さんの奥さんね」
「うん。で」
「飲みにいこうって」
「え、いいじゃん。行ってきなよ」
「でも、今日なんだよ」
「え」
「今日の六時にどうですかって」
「今日かよ。間に合わねぇだろう」
「家の近くらしいんだ。住宅街にある居酒屋なんだって」
「じゃあ市内か。ギリ間に合うっちゃ間に合うんだろうけど、夕飯どうすんの」
「ごめん。どっかで食べてきてよ」
「え、昼も夜も外食? やだよ、オレ、そうゆうの」
 亜紗美は助手席から身をよじると、後部座席へ猫撫で声で問いかけた。
「皆さんはどうですか。夜はどこか食べに行きたいですか」
 子どもたちは心得たもので、行きたい、行きたい、サイゼリヤ、丸亀製麺、スシロー……とにわかにはしゃぎだす。

「休みの日の夕飯くらい、たまには自分たちで作れっていいたいんだけど」
「いえばいいじゃん。だって亜紗美さん、誰かとこうして飲むなんてこと、めったにないわけでしょ。いまどき珍しいっていうか、楽しんどいでって背中押すんが、家族ってもんでしょ」
 いいながら、璃子さんは、自分のグラスにヒューガルデンホワイトの瓶ビールを傾けた。亜紗美のグラスはさっきから空になったままである。
「そうだよね。そこが日本人の限界なのかな」
「あのね、亜紗美さん、いわゆる亭主関白って男はね、そりゃフランスにもおるんですよ。いまならモラ男か、こんなん世界中に仰山おるんです。日本人かどうかやなくて、人としての思いやりの問題」
「そっかー」
「そうですよ。まぁ、モチダ夫人とその取り巻きみたいなんはフランスではまずお目にかからないけどね。それがアメリカだと、夫が同じ会社に勤めてたりすると妻同士つるんでマウント取り合うなんて話よく聞くから、アレも日本の専売特許ってわけじゃない」
「モチダ夫人か……。悪い人じゃないんだけど」
「悪い人なんて、そうめったにいるもんやない。アレはね、かわいそうな人。こないだもさ、まず優斗くんのママンからさ、インスタにフォローリクエストがきたんだよね。で、スルーしてたら、子分たちに続いて御大まで乗り込んできて」
「え、璃子さんて、SNSやってるの」
「やってるよ。Meta系はぜんぶやってるし、XもTwitter時代からほぼ依存症」
「そうなんだ。意外。だってLINEのアカウント持ってなかったから」
「LINEはふつうやらんでしょ。TikTokも。いかがわしいもん。あ、個人の見解ね。でさ、インスタの話だけど、全員スルーするのもなんだからさ、あるときいっせいにフォローしてやったわけ。そしたら、あの人たち、たしか毎日仕事してたよね、なんやけど、うちの上げるストーリーズの一々にほとんど同時に足跡残してくんよ。いいねも押さずに。なーに考えてんだか」
 情報量過多に戸惑いながら、亜紗美は相槌を打つのがやっとだった。
「ママ友とか、時間の無駄じゃん。とうに陳腐化してんのに、いつまで日本の女は繰り返すんだろうね。もっとも、うちはこの国を永久に離れますから、どうでもええっちゃええねんけど」
「え、どうゆうこと」
「そうなんよ、うちらね、年内に日本を離れるんです。夫の実家のディジョンに永住することに決めたんよ。そのこと、亜紗美さんには直接いわんとあかん思うて」

 亜紗美は九時過ぎに帰宅した。夫の怒号ともつかぬ声と子どもたちの歓声が、玄関の外にいても聞こえてきた。スイッチのゲームに熱中しているとわかり、亜紗美は深いため息をついた。家に入ってさらに彼女を暗澹とさせたのは、食卓の上に放置されたカップラーメンの空の容器だった。居間のソファーや床に銘々怠惰を絵に描いたような姿態で寝転がる夫と子どもらを睥睨して、亜紗美の怒りは頂点に達した。感情が極まると、亜紗美はかえってハタからは静まり返って見えるのらしい。
「ねえ、食卓のあれ、どうゆうこと。サイゼリヤ行ったんじゃないの」
「あ、おかえりぃ。あれって……ああ、あれね、子どもたちがカップラーメン食べてみたいっていうからさ、夢を叶えて上げたんだよ」
「冗談でしょ。カップラーメン食べさせない理由くらい、親ならわかるでしょう」
「そうなんだけどね。家でご飯にすれば時間もお金も節約できるし、時間ができればこうやってゲームする時間も確保できるわけで、子どもたちと合意にいたったわけです」
 すると子どもたちは手元から目を離さないまま片手を上げ、合意、合意、合意……と唱和した。
「居間では飲食しないって約束したじゃない!」
 居間のテーブルに開けられたポテトチップスの袋が視界に入って、途端に爆発したものだった。亜紗美が夫に怒鳴ったことなどこれまで一度もなかった。しまった、そう思って踵を返しかかって、おい、と呼びつけられた。夫がそのように凄むことなど、これまたいまだかつてないことだった。
「どうしたんだよ。なんかあったのか」
 夫は寝転んだまま難詰したが、ことばの後半はたちまち萎んで困惑こそあらわになった。夫の太鼓腹をキッと睨みつけると、すぐさま長男に向かって「いい加減にしなよ。九時になったらやることやるんだろ」といい捨てて、亜紗美は奥へ引っ込んだ。

 モチダ夫人からの亜紗美への直接の連絡はないまま、どうやら噂は事実として確定したらしく、預かり保育で水尾を五時に迎えに行くと、ちょうど居合わせた優斗ママが神妙な顔つきで近づいてきて、耳打ちするようにいった。
「やっぱクレーム入れたの、璃子さんだったって。正確には璃子さんのダンナさんだけど」
「うそ。それ、だれ情報なの」
「ここだけの話、もも組のいちか先生だよ。モチダ夫人が彼氏を世話してあげたのが縁でさ、いまじゃすっかりうちらの飲み友でありスパイなんだよね」
「そうなんだ」
「なんかさ、あの黒人のダンナがさ、園長先生んとこに話があるって一人で乗り込んできて、寺でクリスマス・パーティーはさすがにおかしいだろうって詰め寄ったんですって」
「え、あの人、日本語そんなに流暢だったっけ」
「わかんないけどさ、英語でまくし立てられてもその場にいた人はなにいってんのか誰もわからなかっただろうから、カタコトの日本語で吠えたんじゃない。いっぽうは袈裟がけの僧服のつるっぱげで、いっぽうはスーツの黒人の大男、なんか想像すると怖いっていうか、シュールすぎて笑っちゃわない? で、園長先生も、それは保護者が園外活動として任意で実施するもので、園側としては場所を貸すだけでなんの関与もしないって頑張って説明したらしいんだけど、そもそもお堂がすぐそこに見える部屋にクリスマス・ツリーを飾ることの違和感を住職としてなにも感じないのかって食い下がるんですって。まぁ、園長先生も、うちらの企画には、もともと乗り気でなかったからさ。はい、その通りですって、あっさり引き下がって、クリパ中止を請け合っちゃったらしいんだよね」
 モチダ夫人らがせっせと集めたクリパ開催賛成の署名を園長先生に渡しにいく際、なぜか亜紗美が請われて同席したのだった。そんなときには古株であることの信頼性に使い勝手が生まれるものなのかと鼻白んだのを、亜紗美はあわせて思い出す。いや、鼻白んだとはテイのいい偽記憶で、あのときの自分は誇らしげに同行したはずだった。園長先生が、「うちは真言宗の寺ですからね……」と署名を受け取るのをなおも渋るのを横目に、クリスマスツリー飾ってクリスマスソング歌ってプレゼント交換して……って、そこになんの宗教性があるというのと不思議だったし、あくまでそのイベントをキリスト教と不可分のものと考える園長先生の頑迷さに亜紗美は亜紗美であきれるのだった。サンタクロースがいるとかいないとか、小さい子どもを持つ親ならば少なからずそれについての態度表明を強いられるわけだが、日本人のほとんどがサンタクロースの起源なんか知らないし関心もない。なぜクリスマスツリーが樅なのか、なぜ夕餉の卓にチキンが並べられ、最後にケーキを食べるのか、仮にそれぞれの起源についてしたり顔して語る人間がいたとして、ハイハイそうですかと煙たいばかりで大半は歯牙にもかけない。要は経済じゃんかとどこかで開き直っていたりもする。そもそも神仏習合の国なんだしと、高校で習った日本史の知識まで動員して内心で理論武装しながら、いざとなったらモチダ夫人に加勢するつもりで亜紗美は控えていたのだった。
「それで、モチダ夫人は」
 亜紗美は訊いた。
「すんごい怒ってる。園長先生はことの重大性がわかってないって。この界隈の幼稚園はどこも盛大にクリスマスを祝ってるじゃん。二葉幼稚園ではミッション系の大学の学生たちがハンドベル演奏会を催すし、啓明幼稚園では子どもたちが夜の園庭でキャンドルサービスをする。一年に一度のロマンチックな日なのに、うちだけなんかそっぽ向いてる感じじゃん。そこをモチダ夫人は問題だと思っていて、そんなマインドだと、あっというまにうちらの幼稚園の入園者は激減するって怒る以上に嘆いてるんだよ。クリスマスはキリスト教のイベントで、仏教には関係ないといったらそれまでなんだけど、二葉幼稚園だって啓明幼稚園だって別にミッション系じゃないわけだしさ、世の中にはこんなイベントもあるんだよって子どもたちに紹介するつもりで、大きく構えりゃいいわけじゃん。てか、璃子さんのダンナさぁ、マジ、オメエになんの関係があんだよって話だよね。有志の開催なんだからさ、文句あんなら参加しなけりゃいいだけじゃん。エラそうに、ナニサマなんだよ」
 優斗ママの口ぶりからすると、璃子さん一家が今日明日にも日本を発とうとしていることなど知らない様子だった。亜紗美はもちろん、黙っていた。

 結局、幼稚園でのクリスマス・パーティー開催中止の決定は覆らなかった。グループLINEでは、「じゃあどっか会場借り切って開催する?」との打診がちらほらあったが、「ごめん、クリスマス前後に野暮用が」の御大の一声で、以来クリパの話は立ち消えになった。
 年明け早々、グループLINEに来年度の幼稚園についての最新情報が駆け巡った。


-来年度の年少さん、ヤバいんですって‼️ 20人も集まらなくて、1クラススタートなんだって😱😱😱

-ヤバいじゃん。存続危うしって感じだね

-原因は。やっぱ
🍃クリパ🎅中止が響いた🔔かな🌀🌀🌀

-まさか。幼稚園の申し込みは去年の十一月末が締めだから、クリパ中止は関係ないよー

-やっぱ、休みが多いからじゃね? 午前保育も多いし、預かり保育の日数も限られてる。あれじゃ、当園の園児の母親は主婦に限りますっていってるようなもの

-園長先生、笑わないしね

-あいつ、なんでいっつもあんなむっつりしてんの
❓💢

-こないだ午前保育で息子ちゃん迎えにいったらさ、子どもたちが珍しく園庭で園長先生に絡んでたんだよ。そしたら、私は君たちと遊ぶためにここにいるんじゃない、あっちへいきなさいってちっさい声でたしなめてんの。あり得ないよね



 特に意見がなくてもやり取りの一シークエンスに対し、遅ればせながらでもなんらかのリアクションをしておかないと、「既読スルーちゃん」とかなんとか、後々なにをいわれるかわかったもんじゃない。「それなー🤔」「あれはひどいね😤」とか、適当に相槌打っておしまいになるのが亜紗美の常だったが、この頃はモチダ夫人も忙しいのか、返信は遅いし中身もおざなりだった。舌鋒鋭いモチダ夫人を焚きつける意図も当然にある先触れたちは肩透かしを喰らう格好となり、もとより気焰は上がらず、グループLINEのやり取りも段々下火になっていった。


2/2へつづく

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