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家憑 #4/4


 有給休暇明けの真丘は、平生となんら変わりなかった。
 そのようにハタからは見えた。

 いつもと同じ時刻に起き出して、いつもと同じものを胃に入れ、いつもと同じ時刻に家を出て、きっかり十五分自転車を走らせて、駅前の駐輪場に到着。いつもと同じ満員電車に押し込まれ、マスクの立ち客はスマホや文庫本を覗くスペースすら与えられず、みな黙然と目を閉じて目的地まで揺られていく。これとていつもと変わらない。職場の最寄り駅で降りて、駅から社屋までの道すがら、同じ会社の人間とことばを交わす羽目にならないよう、うつむき加減で速歩するのもいつもと同じ。

 しかし真丘は、社屋の前をそのまま通り過ぎる。目的の定まった確かな足取りで歩き続け、旧街道の交差する十字路を左折した。その先に古くから続くのらしい小さな金物屋がオフィスビルに挟まれるようにしてあり、そこに入ると剣先シャベルを迷わず手に取ってこれを求め、すぐさま店を出た。来た道は戻らず、そのまま三十分ほど歩いてひとつ先の駅から電車に乗り込んだ。

 家の最寄駅からは自転車に乗らなかった。
 南進する直線道路を一キロほど歩いてから、バス通りの激しい二車線の往来に逸れ、申し訳程度についた歩道を危なげに渡っていく。二棟のプレハブの間に空いた袋小路を折れると、その突き当たりが例の古民家。
 玄関の右手にある鉄の門扉に手をかけると、錠が下ろされていて、先日の内見の際にかけ直されたものかとちらと思い当たりながら、シャベルと鞄とを鉄柵の向こうへ投げ入れ、手をかけるまでもなくひらりと柵を飛び越える。シャベルのみを拾い上げ、建物の側面と塀のあいだのドクダミの小道をするすると抜けると、そこに開ける草深い荒庭、見定めたるは奥の石柱。

 梅雨晴れとはいい条、誰もが梅雨明けを疑わぬ晴れ日と猛暑がここ数日続いていて、その日の昼近の午前もよく晴れて、晩夏に見るような金床雲が西のかなたに鎮座した。庭に陽光が降り注ぎ、緑は目映く、風は凪ぐ。蚊のひとつもまとわりつかない。

 真丘は、三本の石柱を順次蹴倒した。土の下は案外深かったが、雨を十分に吸った土は柔らかく、倒すのに造作もなかった。倒したコンクリート塊は底面が十センチ四方、高さは一メートル以上あり、これらをひとつところに集めて積み上げるのはさすがに難儀すると思いきや、空の段ボールを放るような軽さなのを真丘はいぶかった。
 たちまち石柱を庭の隅に束ね終え、続いて柱の埋まっていた基礎の部分にシャベルの剣先を当てて掘り進む。掘って掘って掘りまくってついにそれが出たとき、天を仰いだ真丘は、自分の口からいまだかつて聞かれたことのない咆哮の漏れ出るのを、遠い夢のようにして聞いた。天を仰ぐ真丘の額の真んなかを、溶けた鉛のような雨粒が一滴、したたかに打った。

 二つ目を掘り進めて丁重にそれを取り出し、さらに三つ目を掘り進めてついに目的は果たされた。いつの間にやら陽は翳り、重たげな雲が頭上に垂れ込め、日没後の暗さと変わらなかった。雨脚が段々に強くなり、草木は容赦なく鞭打たれ、方々に飛沫を散らし、そして瓦屋根は全体茫と白く輝くようで、耳を弄する打楽器のどらどらどら。
 眼下に三体が雨に洗われている。その腐臭すら愛おしく、愛おしさの募るほどに、内奥のほむらはいよいよ燃え盛り、目や耳や鼻や口や尿道や肛門やありとあらゆる穴から火焔の舌は迸り出て、雨という雨を焼いた。

 汝、驟雨を焼き払わんとせり。
 ようようもえいでにけるほのほ、天をひるませ、此れを明け渡さん、と。

 じき空は明るみ、雲間から幾条もの光の柱が差して、巨大な虹が三重にかかった。
 毛皮の襟巻きのようにだらりと伸びて萎びた三体だが、往時の鼻筋の白毛はかろうじて認められた。むんずとまとめてつかみ上げると、軒下まで来てやおら身をかがめ、弾かれたように振り仰いでその拍子に三体の子らの遺骸を、屋根の上の露台に放り上げた。と、どこからともなく鳶のような姿形の、目と目の間にこれまた縦にひと筋白い冠毛を戴く大きな鳥が順次舞い来たって、一羽がひとつ、またひとつ、露台の遺骸を攫っては、北東の方角へ飛び去った。

 帰るさ、背後から呼び止められた。
 女が立っていた。
 水色の隣家の玄関先。
 せいぜい若作りした厚化粧の年増。脂肪の塊。短軀の太り肉で、肉感的ではある。やけに丈の短い黒のノースリーブのワンピースを着て、胸には白猫の背を抱いている。爬虫類の喉元を思わせるような首の皺と、二の腕のたるみに浮いた縮緬状のそれとから、上がって久しい女であるのは一目瞭然。
 すでに一度不法侵入していること、家族を連れてぬけぬけと内見に来たこと、そして今日のことをねちねちと並べ立て、警察を呼んでもいいのだけれど、となにやら脅すようだがその目的がいっかな見えない。女がしゃべり募るあいだ、白猫は頻りに伸び上がっては身をくねらせてその桎梏から逃れようとしている。
「こんなことのあとには、男はほしくてたまらなくなるんじゃないの」
 片方の手でスカートの裾をまくり上げようとして、その隙に猫が危うく離れそうになり、頭から押さえつけにかかったところを癇に障って空を掻いた、その爪が、女のまぶたにすっと切れ込みを入れ、幕が両側に引かれるようにして薄皮が開いて一瞬眼球が飛び出したように覗き、覗いたかと思うとぱっとあふれ出した血の滝にたちまち覆われて、女は目を押さえてぎゃっと叫び、後ろざまに倒れ込んだ。
 スカートの裾がめくれ、菱の形に開いた脚のあいだの仄暗い奥に白毛混じりの茂みの密なるが見え、充血した蛭の雌雄の絡み合うようなのがうねうねと脈打った。

 シャベルの柄を頭上高くに掲げると、ひと息に剣先を突き立てる。




 虫が知らせたのだろう。

 夢と潰えた古民家暮らしの名残惜しさに引かれ、買い物がてら例の物件まで帰路を迂回しようとした真丘の妻は、その矢先に時ならぬ雨に見舞われた。雨具を持たない彼女は、しばらく店内で雨宿りを余儀なくされた。

 じき雨は上がり、細い歩道を自転車を押しながら進んだ。陽は中天にかかろうとしていた。空に大きな虹が三重にかかって、この椿事に歩を止めしばし呆然として眺める通行人らが彼女の行手を妨げた。

 物件の最寄のバス停から、彼女らの住まう界隈から最も近い繁華街を終点とするバスに乗り込む夫を遠目に見たように思った。シャベルを小脇に抱え、胸には白い猫を抱いている、と見えたが、今日日ケージに入れない猫や犬を連れてバスや電車に乗れるものではない。夫のことでは、自分こそ相応に気疲れしていると、改めて自覚する。

 彼女が真丘の姿を見た、それが最後だった。しかしその時点で、まさか夫の見納めになろうとは、ゆめゆめ思わない。今時分こんなところにいるはずもなかった。早々に錯覚と往なすと、家路を急いだ。

 玄関に、今朝方夫が履いて出た革靴と、子どもたち三人の運動靴がきちんと並べられてあった。壁の時計を見て、彼らの帰宅には早過ぎる時刻であるのを確認する。
 鰻の寝床のような間取りで、風呂場やらトイレやら納戸やらが廊下の片側に並んで、正方形の磨りガラスが二列三行に嵌ったドアが廊下の突き当たりを今や仕切っているが、その向こうに台所兼食堂があり、磨りガラス越しに明かりの点いているとわかる。

「どうしたのよ」
 廊下を進みながら二度、三度とドアの向こうへ呼びかけるが返事はない。ドアノブに手をかけた瞬間、何か躊躇われるものがあって、恐るおそる隙間から覗くと、食卓を囲う子どもたちが見えた。
「なんでこんなに早いのよ。みいは、どうやって帰ってきたの」
 汁を啜る音、咀嚼する音、そして嚥下する音ばかりが室を領していた。テーブルの中央にあるものへさかんに手を伸ばし、それを両手に捧げ持って、一心不乱に貪り食う。
「ちょっと、あんたたち、なにしてんのよ」
 子どもたちがいっせいに顔を上げた。口の周りを一様に赤く汚している。
「なに食べてるの」
「枇杷だよ」
 長男がいった。
「パパがお土産に買ってきてくれたんだよ」
 長女が補足する。
「それは枇杷なんかじゃない。そんなの、食べてはダメ!」
 子どもたちの手にしたものを次々に叩き落とすと、テーブルの真んなかに置かれた大皿を奪い取って、それごと流しに投げ捨てた。見た目と匂いとに嘔吐が込み上げる。
「パパは、どこ」
「パパなら、部屋だよ」
 誰がいったか、もうわからない。食卓に座りついたまま、母親を視線で追う子どもたちは、母親が背を向ける刹那、音もなく、くわと口をいっせいに開いた。
 夫の居室のドアをノックして、名を呼びかける。学生の時分以来、二十年と口にしてきたその名が、まるで馴染みのないそれのように舌先にもつれた。ドアノブに手をかける。それは施錠されていなかった。

 ドアを一気に押し開ける。
 たちまち先刻とはまた別の異臭が鼻を打つ。鼻と口とを片手で覆って部屋内を見渡すも、手前の床には脱ぎ放しにされた部屋着類、箪笥の上には乱雑に積み上げられた本類と、変わり映えしない様相を呈した。
 これまた変わり映えのしない仕舞い忘れの敷布団があって、掛け布団は剥がされたまま、夫の姿はどこにもなかった。クローゼットのなかはもとより、カーテンの向こうに隠れているということもない。

 ただ、寝床の中央に、見たこともない小動物がうずくまり、赤い口腔を晒して、さかんにいらめくばかりである。

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