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轆轤首

「首が、飛ぶの」
 そう聞こえて、カウンターの端に座った四木は思わず顔を上げた。

 歳は六十前後か、仕事帰りの一見客とわかるのは、胸に社名を縫い付けた紺色の作業着を羽織るからで、社名入りともなれば場末でささやかに網を張る独身女将には安心なようで、七つある止まり木の真ん中にどかっと座りついたときからなんだか雲行きは怪しかった。宵の口だからいいようなものの、零細ながら平日でもそれなりに客の出入りはあるわけで、カウンターの真ん中に座るとはいかにも見くびる態度だが、粗忽者には容赦のない女将さえ押し黙らざるを得ないような、異様な太々しさをその客は放っていた。
 客は四木が反応したのを見逃さず、カウンターに両肘をついたまま身を乗り出してきて、顎を支えた右手の人差し指をピッとまっすぐにすると、それをゆっくりと顎の下のたるみをなぞるように水平に動かしながら、
「首がね、飛ぶんだって」
 と繰り返し、下卑た笑いを漏らした。
「どこも不景気ですからね」
 四木がお愛想で返すと、やおら背を逸らして顎を引き、腕を組んで女将の腹のあたりを見据えながら、
「そんな話、誰もしてませんが」
 と胴間声を発した。

 正直、四木は客が女将と交わす会話を、まるで聞いていなかった。これはもう昔からのことで、四木の側にいささかも悪気はないのだが、至近距離にいながら他者同士のする会話を盗み聞きすらしないというのは、世間的には侮辱するに等しいらしかった。「あ、ごめん、聞いてなかった」と面と向かっていうことの不遜さなら、四木にも十分想像できる。あえてそのようにいうことで侮蔑を表明する者がいるのも知っている。しかし四木の場合、なんというか、自己に沈潜すると線路が切り替わる感じで、外界とのチャネルはすっかり閉ざされてしまうのである。そして彼は「いまなに考えてたの」と人によく問われたものだし、それに対して捗々しく答え得たことなど一度もなかったのだが(そして多分にして人を不快にしてきたはずだが)、そのじつ、意識の線路が外界に切り替わるのと同時に今度は己の内奥に通ずるチャネルが閉ざされて、モノローグの切れ端どころか、なにについて自分が考え巡らしていたのかさえ見当もつかないのだった。ある種の痴呆かといえばそうではなく、再び自己に沈潜する機会を得たなら、なにを考えていたかたちまち詳らかになるし、苦もなく独り想いの続きを紡ぐことだってできるのである。

「ちょっと考えごとしてまして。気を悪くされたなら、謝ります」
 争いを好まない四木は、理不尽な場面を切り抜けるために平身低頭することに抵抗はない。男は男で頭を下げられて、拒絶の態度をやや軟化させたようである。女将に話しかけると見せかけて、四木に話を復唱するという芸当をやってみせた。
「だからね、ワタシはね、コウモリが瓦の裏だか屋根裏だかに巣食うと聞いてたから見積もりも出したし、現場の下見にもこうして来たわけなんだ。それがさ、依頼者は面と向かうなり声を潜めてこういいやがる、じつは巣食うのはコウモリなんかじゃない、人の首、あるいは人の首のようなものなんだと。で、それを生け捕りにして渡してほしいというんだな。人を馬鹿にするにも程があるでしょうよ。いったいどういう土地なの、ここは。首が飛ぶなんて、当たり前のようにある話なのかね」
 さて、なんのことやらと惚けながら、おもむろに顔を上げた拍子に女将の首がスコンと外れて客の面前に浮遊した、なんてことなら面白かろうが、もちろんそんなことは起こらない。
「さぁ、わたしはこの土地の人間じゃないからねぇ。四木さんは地元でしょ。首が飛ぶなんて話、ここらではよく聞くことなの」
「珍しくはないですね」
 四木は即答した。たじろいだ女将の目の奥に瞬時に得心の色が差して、みるみる共犯印に泥んでいく。
「この頃はとんと見ませんがね、子どもの頃にはよく見かけましたよ。季節を問わず、夕方なんかに」
 どいつもこいつも人を担いで馬鹿にしくさって……と悪態つくと、止まり木からずり落ちるようにして床に着地した男は、作業着のポケットから札を何枚か取り出すとそれをカウンターの上に叩きつけるように置いて店を出ていった。

「悪い人ね」
 女将はいって媚態を作りながら頼みもしないスコッチの杯を差し出した。しかし四木にはなんのことだか、にわかには得心されない。
「これ、高いやつ」
「奢るわ。今日はさ、もう店じまいして、四木さんといいことしたいな」
 このあと予定があるわけではなかったが、四木は女将の誘いを丁重に断った。女将もいつものことで、断られたら断られたで理由も聞かず、じゃあまた今度、といって後腐れがない。カウンターに叩きつけられた紙幣を拾って皺を伸ばしながら、アイツ、三枚も足りないじゃんか、とぼやいて、またなにやら思い出したものか、くるくると笑い始めた。
「飛ぶ首のことだけど、あれは作り話じゃないよ」
 四木はいおうとして、よした。スコッチを二口三口と舐めるうち、じき己に沈潜した四木は、意識の線路がカチリと切り替わる音をたしかに聞いた。聞いた刹那に思わず驚いたのは、先刻までの夢想の続きがありありと蘇ったからで、アラビア語で学生を意味する徒輩が民衆を煽動して行うとされる石打刑の、その用済みとなった石塊をどうにかして手に入れる方法はないものかと考え巡らせていたのだから、そんなこと、迂闊に人にいえる事柄ではもとよりないわけだった。




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