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火水 #3/4




「市中引き回し」と聞いて、縄でくくりつけた罪人を馬かなにかで町なかを引きずり回すの図を思い浮かべる向きもあるらしい。

 もちろんそんな手荒なことはしない。

 裸馬の背に菰を敷き、それへ罪人を乗せ、衆目あるところへ連れ出して晒すという、要は見せしめ刑である。単独の刑として執り行われることはなく、死刑のいわば付加刑であり、だからといって必ずや死刑に付加されるものではなく、強盗殺人、通貨偽造、不義密通等の重罪に限られた。付け火もまたしかり。

 江戸城下における市中引き回しには二種あって、ひとつが「江戸中引廻」、いまひとつが「五カ所引廻」。前者は牢屋敷を出、江戸城の外郭を時計回りに廻ってまた牢屋敷に戻る順路で、牢屋敷裏門を出てから小伝馬町、小船町、荒和布橋、江戸橋を渡り、元四日市町、海賊橋を渡り、同心らの住まう八丁堀を通って岡崎町、印藩町通と抜け、京橋を渡り、最南端は高札の立つことから札の辻と呼ばれた芝車町、そこから引き返して三田赤羽橋を渡り、森本町、四谷御門外、市ヶ谷御門外、御堀端通りを通って水戸殿屋敷脇より右へ壱岐坂を上り、本郷御弓町、湯島切通町、上野山下より下谷広徳寺前通り、浅草雷門前、浅草今戸町まで来てそれより引き返し、御蔵前、浅草御門、馬喰町と来てふたたびの牢屋敷裏門へ。
 行程二十数キロに及び、刑の履行は一日がかりだったと伝えられる。牢屋敷の非人らが罪人の名やその罪状を記した幟やら札やらを掲げて脇を固め、南北町奉行からそれぞれ一頭ずつ与力の騎馬が出、さらにカチの同心らが続いて三十人からの行列をなしたというから、なかなかに壮観だったに違いない。

 いっぽうの「五カ所引廻」とは、捨札を日本橋、筋還橋、赤坂御門、両国橋、そして四谷御門に建て、これら交通の要衝に罪人を晒すもので、引廻の済み次第、この場合牢屋敷へは戻らず、鈴ヶ森ないしは小塚原にて仕置が為される。火付けの仕置たる火炙りは、鈴ヶ森と決まっていたから、いずれお清は品川のほうへ引っ立てられることになる。

 五カ所引廻については、これまた一日がかりで為されたように記す文献もあるが、『天和笑委集』の、天和二年十一月に火刑に処せられたお春という娘の記述に、「印を立て、町中を引きわたし、其後、神田筋違橋、浅草橋、四谷札の辻、芝札の辻、日本橋右五箇所の辻にて前後十三日往来に面をさらし……」とあることからも、今日は日本橋、今日は両国橋と日を置き刻を決めて晒されたものであるから、罪人にとっては見せしめに耐え難いというより、死までの猶予を与えられるようなもので、ある種の恩恵として甘受されただろうことは想像に難くない。馬上の人の、「此の何某いう罪人は……」とうるさく書き立てる捨札をよそに、もう誰のことやらなんのことやら我関せずになって、好奇の目を向ける衆に対峙してひとり上ぐ目こそは好奇に輝いて、その土壇場での無縁の味、すなわち自由の味とはどんなだったろうとふと思われるのである。自分はお上の決めた矩を越えたがゆえに死ぬ。罰とはあくまで下々に対する見懲らしであって、自分という罪人を懲戒するものではない。だから、お縄となった時点で、お春はお春としては死んでいるわけだ。「火付けのお春」とは観念的存在であり、実在としてのお春の肉体も、刑の残酷さを更新するために差し出される供物のひとつに過ぎない。すると馬上でこうしてうなだれる私とはなんなのか。
 お春のことはいざ知らず、馬上から娑婆を見渡すお清の眼に、あるときから差した光こそは、そうした啓示と無関係ではなかった。それを自由と名指しするわけもない。お清の胸中を代弁すれば、そのとき世界はいつにも増して輝いて見えたのである。世界の照り返しにおいて、お清もまた光輝を放ったはずだが、それに衆が感応することはまずない。とまれ、凛然たるお清の姿に眼差しを釘付けにする娘がひとりあるにはあった。それこそは八百屋のお七、本郷へ帰るさ通りすがりの両国橋にて、引廻のお清を偶然ひと目見る機会を得た。同じ年嵩の娘が、あんな、と同情を誘われたのではなかった。それは正しく憧憬だった。ほかでもない、いままさに恋に身を焦がしつつある生娘だったればこそ、お清の光輝を感受するに足りたわけだった。

 無縁であることの自由を夢見させる点で、死と恋とはよく似ている。



 お清の里のたったひとりの肉親である母親は、かれこれ三年と床を上げない病身だから、お清の死出の世話焼きに江戸に呼び寄せるなど望むべくもないし、仕置のあとで非人から遺骸をこっそり引き取って手厚く葬るのも黄白次第であるけれど、もとよりそんなこと、夢のまた夢。それでも若い身空でこんな不運があるものかと憐れんだ誰彼も少なくなく、牢屋敷では下にも置かない待遇で、引廻の折にはせめて町家の娘風の質素で清潔ななりで臨みたいと吐露したささやかなる願いは善意の人々の尽力において叶えられた。総じて引廻の際の処遇は寛大で、かの鼠小僧が女化粧の派手ななりして引き廻されたのは有名な話だし、罪人は幾許かの金を与えられ、中途で煙草や酒を嗜むくらいは許された。見物の女のひとりが乳飲み児に乳をやるのを見て、あれを吸いたいと所望して叶えられた罪人もあったという。

 お清が道中同心らを煩わすことなど金輪際なかった。馬上の娘の姿は、詮無い定めに打ちひしがれる腑抜けとは対極にあって、うららかな陽を浴び風に揺れる一輪の野菊さながらに、凛としてうなだれず、視線は先の先へと注がれて、かすかに笑みさえ浮かぶようであった。
 太い女、と思う輩もあったろう。誰かの放った礫が額をしたたか打ったときも、お清は動じなかった。引廻の十日あまり、お清は胸中ひそかにあり得たかもしれない町娘としての自身の一生を何幕と育んで、さまざまな男を夫にしては契りを結び、子を何人と成して、せいぜい大切にし、大切にされ、いずれも慎ましさに甘んじて、賑やかなうちに老いて生涯を閉じることを夢想した。木場の若旦那のことは微塵も思い出されなかった。それもまた、泡沫(うたかた)に消えるあまた夢想のひとつだったのである。

 火刑執行当日は、悲しいくらいによく晴れた。はや長月にかかり、日中の暑気はさまで苦しくなく、朝夕の風は荒みがちで、夜は虫の声が耳を聾さんばかりだった。この日のために武州産の芦毛が調達され、それに引かれて伝馬町牢屋敷から品川は鈴ヶ森まで赴く。入相(いりあい)の鐘撞く時分には、我が身は煙と成り果て跡形もなくなる。
 芦毛の轡を引く非人頭と思しきが、出立直前にお清の耳元で、
「煙が濛々と上がったらともかくそれを吸いまくれ。じき楽になる」
 と小声で教えた。

 朝の早いうちに出立した一行は、これまた三十人からの仰々しさで、先触れの雑色が、鈴ヶ森での刑の執行を高らかに喧伝して、思い出したようにこれを繰り返す。
 子の刻近くになんとかいう寺の広い境内に休むと、好きなものを食ってよいと言われてお清の脳裏に食物は何も浮かばなかった。境内の御神木の下生えに彼岸花が見えて、それが群落を成さず、二輪三輪寂しげに花をつけるのをお清はいぶかった。
 入相の鐘と言えば暮れ六つの日没どき、お天道様の見えなくなるのがこの世の見納めかと漠と思っていた。日もだいぶん傾いて、潮の匂いが濃くなりまさり、白い水鳥が暮れ空にちらほらと浮かんで、耳を澄ませばかすかに聞こえる潮の遠鳴り。凪を選んで火を放つと見えるが、一行が鈴ヶ森に入る時分には空模様はだいぶん怪しくなってきた。
 非人六人がかりで科人を馬より下ろす。罪木につけたる輪竹の中に入れ、両高腕を釣竹に、細腰と高股を柱に結びつけ、足首を一足に寄せて、同じく結びつける。結びつける太縄は、いずれも結びつけたあとに泥を塗り込めるが、これは火刑の火によって焼け落ちるのを少しでも遅らす工夫。足の下に薪を置いてこれを踏ませる。
 続いて竃造り。茅と薪とで全身を覆っていく。「……竹で輪をこしらえ、下に竹を打ち込み、ひと廻り大きく丸く縄を張って、薪を三把ずつ結んで、この縄張の中に立ちならべる。それから茅を一把ずつ結んだまま、二重三重にも積み上げ、中ほどより上には茅をちらしかける。見たところ、蓑虫みたいになる。薪二百把、茅七百把を使う」。
 仕上げに「出入口」すなわち顔のまわりを薪と茅でふさぎ、検使の合図を待って風上から火をつける。これを筵で煽る。じき蓑虫は火に覆われていく。

 視界が利くうちはすべてが他人事の夢見心地だったのが、顔前を茅で閉てられた途端、お清はにわかに恐慌する。しかしなにをどう言葉にすればよいのか皆目わからない。身をくねらせれば泥縄はさらに深くへ食い込むよう。あゝともうゝとも言われずさかんに首を左右に振るばかり、検使の命令は朗々たるもので、それを受けた弾左衛門手代以下非人たちはうんともすんとも答えず、やがてぱちぱちと火の粉の爆ぜる音、下から前から、やがて左右からも後ろからも迫り来て、遠く近くになる物の焦げる匂い、案外熱さは感じないものなのかもしれないと安堵するハナから、熱いとも冷たいともつかぬただただ白く凝るような堪え難さに知らず獣の如く咆哮していた。まさか自分の声とは思われず、それがまた恐怖を倍加する。
 芦毛の背に乗る直前にされた忠告をむろん忘れたわけではない。藁にも縋る心で咆哮の合間合間に息を目一杯吸い込むが、肺腑の内から焼ける感覚と自身の肉の焼ける匂いとを深々と得るばかりで、いっかな正気は朦朧としてこない。果たしていまが火刑の序盤なのか、あるいはいよいよ佳境なのか、それとも終盤に至るものか見当もつかず、炎に全身取り巻かれているとも思えば、まだまだ薪も茅も燻られ始めで蜘蛛の糸のような白煙をかしこから細々と上げるに過ぎないとも思えて、物狂おしさは極まっていく。終わりは、ある。必ず、いつかは、終わる。極まりはどうでも、どんな騒擾であっても、さざなみひとつ立たない鏡面のような水の静まりが先に控えている。

 ここらでにわかに風が立つ。
 風に煽られて炎の先は茅や薪の表面を鼠のようにひた走り、たちまち火柱を形成して天を衝くように伸び上がったが、濛々と上がった黒煙がそのまま雨雲に変ゲしたように、ぽつ、ぽつ、ときて、あれよという間に驟雨となった。見物も役人も大童で雨を避け、しかし雑色らは火を絶やさぬよう傘を差し掛けなどして粛々と立ち働き続ける。
 傘が裏返るほどの風となり、検使が命じて雑色らもまた軒下で雨風の止むのを待つことに。待ちながら、風雨の音に紛れる科人のうめき声を聞いた。そのうめき声のある以上、これで仕舞とはならない。職務は命じられた通りに正しく全うされねばならない。個人への懲戒という観点があらかじめ奪われている以上、不測の事態により責め苦の程度が増したりその時間が延長されたりしたところで、慈悲の発動する理由にならない。火刑を言い渡された者は、あくまで火刑において死なねばならないのである。万一の備えとして控える槍持も矢の者も、この場合、なんの役にも立ちはしない。ただ黙ってやり過ごすのみ。地獄の底から発せられる断末魔の声を聞きながら、奉行の役人も同心も非人も見物も、それによって激しく揺すぶられるおのれの心のありようにふさわしい言葉を与え得る者など、だから皆無だった。
 しかしまた、浮世とあらば、あってはならぬことが往々にして起こり得るものではある。

 雨風が止むと、濡れた薪や茅はすべて取り除かれ、一からの支度と相成った。日はすっかり落ちて、篝火の元での作業となる。そのあいだ、うめき声の止むことはなく、さりとて出入口の茅ばかりは誰も取ろうとしなかった。
 再びの号令ののちに、炎と煙はじわじわと科人に迫った。科人を包む巨大な火柱となって集合したその刹那、これまたにわかに風と雨になり、火刑は中断を余儀なくされた。さすがに息絶えたと思いきや、形式的にする「とどめ焚き」で乳房に火を翳した途端、罪人は絶叫した。それからまた雨の止むまで聞かされるあるかなきかのうめき声、すっかり晴れ渡るまでに半時近くを要し、濡れた薪と茅とは取り払われて、再々度の火炙りの準備、焼け落ちた輪竹は新しいものに代えられ、泥縄も大半が新たに締め直されて泥を塗り込められた。

 かくしてお清の火炙りは、三度行われるに至った。そして三度目にしてようやく彼女は絶命した。うら若い娘の悲劇的な死に際しては、翌早朝に着物の切れ端などを求めて物好きの殺到するのが常だが、お清の遺骸はしばらく刑場の隅に放って置かれ、非人さえ触るのを嫌がったと伝えられる。いずれ野犬の類が、貪り食ったに相違ない。

火水 #3・了


参考文献

石井良助『江戸の刑罰』(中公新書)

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