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火水 #4/4完



江戸時代、火付けをして火刑となった娘はいくらもある。齢十五、六、いずれもやむにやまれぬ動機による。嫁ぎ先なり奉公先なりが地獄で、これが燃えれば解放されるの一心だった。あと先考えた様子はなく、火付けの最中に誰かに見咎められるのが大半で、逃げも隠れもしなかった。

歌舞伎で知られたお七の火刑が天和三年で、その一年前がお春、半年前にお清だから、一年のあいだに記録に残るだけで三件の娘の火刑が江戸市内にあったことになる。

お七の火付けの動機については、西鶴の『好色五人女』にこうある。

「(…)それとはいはずに、明け暮れ、女心のはかなや。逢ふべきたよりもなければ、ある日、風のはげしき夕暮に、日外(いつぞや)、寺へ逃げ行く世間の騒ぎを思ひ出して、『又さもあらば、吉三郎殿に逢ひ見る事の種ともなりなん』と、よしなき出来心にして、悪事を思ひ立つこそ、因果なれ」

天和の大火で焼け出されたお七一家は、駒込の吉祥寺に難を逃れる。難を逃れたその先で出会うのが小野川吉三郎で、同じく『好色五人女』では、「先祖正しき御浪人衆なるが、さりとはやさしく、情けの深き御方」と描写されている。お七と吉三郎は、じき人目を忍んで契りを交わす仲となるが、平常に復したのちもお七の吉三郎会いたさは募るいっぽうで、再び大火で焼き出されれば、避難先で吉三郎にきっと会える、と血迷ったのが動機でお七は悪事、すなわち火付けをするに及んだと西鶴は説明する。

これには諸説あって、のちの歌舞伎の脚色はともかく、歌舞伎に移植される以前の古い文献をひもとけば、吉三郎を寺の美坊主とするものあり(天和笑委集)、旗本の息子とするものあり(江戸著聞集)なのである。動機についても、吉三郎の罪を庇うため敢えて狂いを演じたとするものから、吉三郎にそそのかされてしたとするものまで様々である。

ここでは諸説あるなかに、新説を加えてみたい。


お清の火刑の顛末については、じきお七の耳にも伝わった。むごいことよと誰彼の憐れむのをよそに、お七がしきりと思い出すのは、引廻の馬上にあって、背筋をしゃんと伸ばし、しかと目を開いて見物を見渡す凛然たる彼女の姿だった。
恋がためにあの人は死ぬ。
お清の最期を聞かされて、お七はいよいよ勇気づけられるようだった。あの人は、火に焼かれる苦しみに耐え抜いて、ついに死ぬまで恋の秘密を漏らすことがなかったのである。

「限りは命と定めたお七のことばに嘘偽りはございません」
言って眼の奥の奥を覗き込むようなのを、吉三郎は耐えかねて、思わず目を逸らした。
限りは命と誓うのに、吉三郎もまた嘘偽りはない。しかし今日も今日とて雪の日に、土筆や松露を売り歩く百姓に身をやつしてようやく逢瀬のかなうこの恋に、いささか怯みはじめたのもたしかだった。
「わたしの恋のほんとうを、どうかしてあなたにわからせたい」
「そりゃもうよくわかっている」
「いいえ。ぜんぜん足りませぬ」
言うと、軒を接する狭い路地へと引き込んで、また口吸いでも求められるかと思いきやさにあらず、懐より取り出したるは火打石と火打金、ぱらぱらと軒下の乾いたところに火口を散らすと、かっかと火花を飛ばして、あれよという間に火種をこしらえた。そこへすかさず懐紙を被せて、にわかに燃え立つ真紅のほむら。
「行って、早く知らせて。付け火がいると。ここに一緒にいては、元も子もない」
あまりのことにただ阿呆のように突っ立って見ていた吉三郎は、お七に力任せに押されよろめいて、ようよう正気を取り戻した。火の赤さの募るのを目の端に、吉三郎は我知らず駆け出していた。
「火事だ、火事だ、火事だ」
叫ぶハナからしきりと口に舞い込む雪のひら。雪のひらは、溶けるとことごとく涙のように苦かった。
吉三郎とて、火付けが重罪と知らぬはずもなく。

馬上にて引き廻されるお七もまた凛として憔悴することを知らなかった。そして人はそこに純な誓いの頑なさを見るはずもなく、ただただ狂女の傲岸不遜を見て悪罵した。引廻十一日目、神田筋違橋に下ろし置かれたお七は、珍しく同心を呼んで頼みごとをした。いわく、あの向こうの橋の袂に、紺地に白抜きの豆絞の手拭い頰被りした男が見えるでしょう、あれに言伝を。
「なんと」
「待ってます、とだけ」
見物を払いながらふたりの同心の近づくのに勘づいて、頰被りの男は慌てて背を向け人だかりを掻き分けた。

筋違橋での晒しをもって、市中引廻は仕舞い。明日の入相の鐘を合図に、お七は鈴ヶ森の煙となる定めである。黒馬の背に揺られて、一旦は伝馬町の牢屋敷に委ねる身。道中すっかり暗くなり、先払いの提灯に火が灯る。それから馬の左右にも。往路はあれだけ朗々と罪人罪状その他を喧伝した同心らも、復路はむっつり押し黙る。
物陰に隠れ隠れしながら、一行を追う影がある。人影は、昨日も一昨日も一行を追った。あるいは十一日前の引廻初日から追っていたかもしれない。紺地に白抜きの豆絞、これを頰被りにして人目を避けるようである。
お七が後ろを振り返るようにした。提灯に一瞬照らされた横顔が、微笑むように見えた。
頰被りをした吉三郎は、先刻からぶつくさとなにやら唱えているよう。先刻どころか、昨日も一昨日も、なんとなればお七の捕縛を聞いたその直後から、栓もなく同じことをひたすら口籠もっている。
「どうしろってんだい。いったいおれに、どうしろってんだい……」
なじるように言いながら、吉三郎自身、なにをすべきかよくよくわかってはいる。問題は、こうまで怖気づいたいま、限りは命の誓いがなんとも空々しいの一事であった。お七がいなくなれば、はらりと憑き物が落ちたようになるのは目に見えていた。
懐中には火打袋が仕舞われて、火付けに必要なすべてが抜かりなく収められている。その所在を着物の上から確かめると、吉三郎はまたお七を追って夜をひた走った。

火水 #4・了

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