主語があいまいなのは私の問題なのか、日本語の問題なのか。
フォレスト出版編集部の寺崎です。
来週から新人編集者さんが入社します。新人さんには必ず、いくつかの必読文献を渡しつつ、こちらのマガジンも読んでおいてねと指示します。
で、つらつら読み返してみたら、自分でも「あれ、俺、こんなこと書いてたんだ」という記事がけっこうあります。もうかれこれ、3年以上続けているnoteですから、自分が書いたことをすっかり忘れてしまっています。
これとか、最たるもので。
主語があいまいなために起こる日常トラブル
この記事の最後にある「主語のあいまいな日本語」の問題ですが、これ、実は日常的に個人的なトラブルの元になっています。
「主語」が抜けたまま、会話を続ける癖が自分にはあるのです。
先日も著者さんと打ち合わせをしていて、直近の担当書籍のイラストの相談をしたところ、著者さんは自分の書籍の話だと勘違いして、会話がずーーーーっと妙にかみ合わず。
変だなぁ・・・と思ってたら、最後の最後でにあれ、「それって、私の書籍のイラストの話じゃないの?!主語が抜けてるよ!」と指摘されて、「わおーーーー!す、すいません、すいません!」なんてことがありました。
みなさんもこういうことありませんか?
あ、ないですか。
よくあるのが「ねえねえ、それって誰が言ってるの?」というヤツです。その発言や主張はオマエのものなのか、それとも誰かの伝聞なのか、あいまいな状態にある会話でよく繰り出されます。
まれに、わざとあいまいにした形で俎上に上げておいて、責任の所在をうやむやにして責任逃れするケースもありますので、かなり要注意です。
「俺」「僕」「ちゃん」「さん」問題
英語をはじめとするシンプルな言語に対して、日本語の表現の豊かさゆえにあいまいな感情領域を発生させる問題として「人称のバリエーション」があります。
まず自分を表現する場合、英語は「I」だけです。複数形が「WE」。
ところが日本語は「私」「あたし」「あたい」「俺」「僕」「わし」「おいら」「小生」など、さまざまな表現があり、それぞれ微妙にニュアンスが異なります。
フォレスト出版に佐賀出身の社員がいるのですが、彼がよくいう「わたし」は「わし」にしか聞こえません。なぜか脳が変換してしまいます。
相手を呼ぶときもたくさんのバリエーションがあります。「さん」「さま」「どの」「ちゃん」など。異性が仲良くなると「にゃん」とか「たん」とか呼びあったり。
「○○さん」だと距離を感じますが、「○○ちゃん」と呼ぶと、一気に距離が縮むものの、基本コミュ障出身な自分としては「○○ちゃん」の呼び方に若干の抵抗を感じます。ちょっと内面に踏み込まれた感じを与えないかな……とかいろいろ考えてしまいます。
著者さんとのテキストのやりとりでは、基本的に「○○さま」にしていますが、まれに途中から「寺崎さま」から「寺崎さん」に距離を縮めてくださる方がいらっしゃいます。その場合は私もペーシングして「○○さま」ではなく「○○さん」と書くようにしていますが、でも、たまに普段の癖から「○○さま」と打ち間違えて送信してしまうこともあり。
日本語はおもろいけど、むずい!
この日本語の「相手との距離を表現するニュアンス」って、ホントむずかしいです。こんな複雑な言語を習得した外国人の方々はすごいなと思います。
そんな日本語を「アート」の領域に磨き上げているのが、現代詩でしょう。
というわけで、今日は最近仕入れた一編のお気に入りの詩を紹介します。
日本語をアートに昇華した現代詩
いま気づいたんですが、詩の世界でも「主語」をなくしたほうが、すーっと情景が入ってくる感じがします。
「僕が●●●だ!」と、俺が俺がと自分を中心に訴えかけられると、うっとうしいですよね。
この詩は、中原中也賞、萩原朔太郎賞を受賞した詩人・三角みづ紀さんの最新詩集『週末のアルペジオ』というものに収録されています。
5月の章から始まり、4月の章で終わる構成になっていて、「ぼく」と「きみ」、「わたし」と「あなた」の詩が交互に登場します。つまり、主体が男性のパターン、主体が女性のパターンが交互に織り交ざっています。
このあたり、とても刺さる表現だなぁと思いました。そして、最期の「適切な孤独」ってなんだろう・・・とすごく考えてしまいました。
巻末付録として谷川俊太郎さんとの特別対談が収録されていて、これもすごく面白いので、日本語の抽象的な世界に遊びたい人にはおすすめの1冊です。
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