編集者目線で最近気になった「言葉」のいくつか
フォレスト出版編集部の寺崎です。
先日、日経新聞で気になる記事があったので、すかさずピックしました。
記事タイトルはこれ。
姑息→「ひきょうな」73%、割愛する→「切り捨てる」65%、文化庁「国語世論調査」新たな意味浸透
2022/10/01 日本経済新聞 朝刊
「ちょっと待った・・・俺も”姑息”を”ひきょうな”ぐらいな意味で使ってたけど、ち、ちがうの!?」
Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン
「姑息」の意味をずっと誤用してきました(汗)
さっそく小学館のデジタル大辞泉で調べてみます。
「姑」はしばらく、「息」は休むの意から、一時の間に合わせにすること。また、そのさま。一時のがれ。その場しのぎ・・・という意味だったとは。
正直いって、本来の意味を知らずに「あいつ、卑怯な手を使いやがって」というような意味で「姑息な手を使いやがって」なんて感じで使っていました。はずい。
文化庁による平成22年(西暦2010年)の世論調査の段階ですでに誤用が指摘されていました。「ひきょうな」の意味で使う人が、70.9%(2010年)→73.9%(2022年)と3ポイント増えています。
文章の「割愛」は「省略」ではない
記事でさらに取り上げられているのは「割愛」という表現です。
これに関しては、ワタクシ、正しい用法を使用しておりました。おっほん。
著者やライターさんが書いてくれた原稿の一部をカットしたいとき。
「ここを思い切ってバッサリ削ると、全体がすっきりして伝わりやすくなるんだよなー」なんてときは、「ここ、カットしていいっすか?」だとさすがに失礼です。あるいは「この部分を○○の理由で省略してもいいでしょうか?」というのも、なんとなく原稿へのリスペクトが感じられません。
「カット?省略?はあ?あんだけ時間かけて苦労して書いたのに、ざけんな!」と、心の中で思う書き手もいるかもしれません。
そんなときに便利な言葉が「割愛」です。
辞書に「愛着の気持ちを断ち切る仏教語に由来する」とあるように、「ホントは残したいんだけど、泣く泣くここは削らざるをえないんです(泣)」というニュアンスを込めて――
「すいません。ここは割愛します」
と著者やライターさんには伝えています。
「声をあらげる」か「声をあららげるか」問題
これも同じ記事に出ていたのですが・・・
「声を荒らげる」
この文の読み方。あなたは次のどちらですか?
①声をあらげる
②声をあららげる
正解は「②声をあららげる」です。
でも、これって、だいたい「あらげる」と読んでませんかね?
日経の記事でも「あらげると読む人は79・7%」とあります。国民の8割が間違ってるわけです。
誤用がいつしか「常識」となる言葉の世界
「姑息」「割愛」「声を荒らげる」が今回取り上げられたわけですが、言葉は日々変化する生き物なので、かつての誤用がいつしか「誤用」ではなくなる日が来るのでしょう。
それはそれで面白いなぁと思います。
そんな誤用がいつしか定着した言葉を集めたサイトがありましたので、ここにリンクを貼っておきます。
島国ニッポンにあふれる婉曲な言葉
最近、ある会社さんとオンライン打ち合わせをしていて耳にした言葉で、「面白いなー」と思ったのがありました。
それが――「○○ベースで」という表現です。
そのときに先方さんが使っていたのが――
「無邪気ベースで話し合ってたんですけど」
というもの。
「さっきスタッフと無邪気ベースで話し合っていたんですけど……」のあとに出てきた話は、ちょっと無理めなこちらへのお願いゴトでした。
つまり、ニュアンスとしては「これは無邪気に言ってることだから、そこまで深刻に受け止めないでくださいね」という含意が込められているわけです。でも、「ダメもとで言ってるけど、話に乗ってくれたら嬉しい」とも。
「○○ベースで」は、伝えたいことを伝えたいときにクッションとして使えるフレーズになっています。
考えてみたら、これ、自分もたまに使っていることを思い出しました。
「ぶっちゃけベースで」とか。
「正直ベースで言います」とか。
よくよく考えたら「ベース」ってなんだよ。笑
「ぶっちゃけ言います」「正直に言います」でいいような気がしてきましたが、これって島国である日本特有の婉曲表現のちょっとしたアメリカナイズバージョンですね。「ベイシカリー」的な。
ある意味で、カタカナ語を使って「ルー大柴化」させるのも、物事を曖昧にしたがる日本人の特徴のような気がします(「気がします」の文末がすでに曖昧ですが)。
【フワッとしたカタカナ語にしていて
「これって、日本語でよくないか?」な例】
仕組み・仕掛け → スキーム
議題 → アジェンダ
枠組み → フレームワーク
優先順位 → プライオリティ
参画 → ジョイン
尊敬 → リスペクト
起用 → アサイン
さきほど、著者の原稿をカットするときに「割愛する」という表現を使う話をしましたが、原稿の改変の提案をする際、文字・テキストで伝える場合にはとても表現に気を使います。
口頭ベースだと(また「ベース」使った!)、細かいニュアンスが表情、声、身振り手振りで伝わるから問題ないのですが、文字だけのやりとりだと情報量が少なすぎて、表現ひとつで相手の感情を左右しかねません。
ゆえに、私がよく使う文末表現が――
「○○という気がします」「○○と感じます」
―—といった曖昧表現です。
ここには「○○と感じます(が、いかがでしょうか?)」と、目に見えないカッコが含まれています。最終的には著者に委ねているわけです。
回りくどい話ですが、これも島国日本の婉曲表現でしょうか。
よくバイリンガルの人が「言語が変わると、性格が一瞬で変わる」といいますから、われわれはいかに言葉に支配されているか……。
そんな話にも飛び火しそうですが、今日はこのへんで。
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