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作品の中の、モールス信号

「日本は、まだ戦争中です。」

このような書き出しから文章を始めると、たいてい読者は離れていくのではないでしょうか。

「僕は沖縄に4年間住んでいました。そこでまず驚いたのは、空を悠々とオスプレイが横切っていく映像が、生で僕の目に飛び込んできたことです。」

少し離れる読者は減りましたかね。でもまだまだ離れていくことでしょう。

「僕が結果4年間暮らすことになった沖縄に降り立った時の話です。いろんなカルチャーショックや新鮮な出来事がありました。道行く人はみんなほりの深い顔ばかりで、話すイントネーションも違う。空を見上げると新聞やテレビで見てきたオスプレイが悠々と飛んでいます。空気はむわっと包まれるような、それでいて突き抜けるような暑さ。まるで異国。それが僕の沖縄生活の始まりでした。」

これならかなり読みやすいのではないでしょうか。どうですかね。

何が言いたいのかというと、作品の中にダイレクトに伝えたい内容を表現してしまうと、その作品自体が「普及」していかないというリスクが、創作活動にはあるのではないかと思うのです。上記の例の中で僕が伝えたかったのは、「沖縄の空には現実としてオスプレイが飛んでいて、日本が制空権を持っていないことや、今も米軍基地があること等、様々なことを考えた。そうしてたどり着いた一つの結論が、日本はまだ戦争中なのではないだろうかということである。」です。しかしながらこれを直接このように表現すると、なかなかたくさんの人には受け入れてもらえないのではないでしょうか。

今のことを書いて未来の予測をするのはいささかイメージしづらいですから過去の作品で考えますと、例えば川端康成の「二十年」という作品があります。これは被差別部落のことを取り扱った物語ですが、そこには、歴史書だけでは語りえない、生々しい当時の暮らしぶりや揺れ動く個人の価値観などが描写されています。僕は、それらの事柄こそが物語の筋道とは別のところで、でも実は作者が最も表現したかった(その表現にカタルシスを感じていた)ものなのではないかという気がするんです。

その冒頭は、「村は野蛮で淫乱だった。その小字の一つは水平社の部落であった。」から始まるんですよ。ただごとじゃない(笑)。でもそういうリアルがあったと思うんです。しかしそれは歴史書には書いてくれない。伝えたくて、直接的にそれを表現して文章にしても、当時の大衆は読みたがらない、すなわち普及しない。ではどうするのか。川端康成がとった手段は、作品の中に、主題としてではなく風景として埋め込むことです。それがその当時の人間に届かなくても、10年後、20年後、100年後の未来の人間が手に取って感じてくれるように。届く相手がいるのかもわからずにただ送信する、モールス信号のように。ひとつの祈りだと思います。

そうして川端康成のメッセージは現在の僕のもとに届いたわけです。もちろん、この考え自体僕の飛躍にすぎない可能性は大いにあります。でもしょうがない。受け取ってしまったんだから。作品を鑑賞するときに、そういった信号を受け取った瞬間、僕はすごく嬉しくなります。あまり心を開かない友達の、静かな本音を汲み取れたときのような気持ちです。みなさんはいかがでしょうかね。だから僕は漫画「ONE PIECE」を読んでいても人種差別における輸血の問題や歴史の勝者としての統治機関によって恣意的にもみ消された歴史の問題を考えたくなります。これについてはかなりはっきりと描写されているものではありますが。そういった祈りを感じつなげることも、文化の力なのかなあと思ったりしますね。

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