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バカの言語学:「バカ」の語義(5) バカ学的語義

バカの言語学:「バカ」の語義(4) 戦前の辞書より


「バカ」の語義を4つに分ける

 「『バカ』の語義」(1)(2)(3)(4)では、明治から現代までのさまざまな国語辞典で「バカ」という言葉の意味がどう説明されているかを見てきました。
 今回は、各辞書の語釈を踏まえて、私なりの「バカ」の語義を考えてみたいと思います。といっても、馬鹿貝はもちろん、道具が機能しなくなるという意味(「ネジがバカになる」)や単に程度がはなはだしいことを表す場合(「バカ正直」)は抜きにします。
 あくまで人やその言動についての「バカ」の意味に限定すると、だいたい以下のような4つのタイプに分かれるのではないかと私は思っています。

①知識の量や理解力・判断力・思考力などの知的能力が社会的な標準に対して欠如・欠落があると見なされる人・こと・さま。おろかな人・こと・さま。
【対象】文末を「人・こと・さま」としましたが、基本的には人、それもだいたいは個人に対して用いられます。「こと」も人の言動である場合が多く、「さま」もだいたいは人の様子を指します。これはこの意味の「バカ」が人の知的能力とネガティブに関わっているからです。
【尺度】優・劣というのももちろんありますが、知識や知的能力の量的な大・小や多・少などの尺度によって「バカ」と判断されます。
【対義語】「利口」、「賢い」、「頭がいい」など。
【他人の反応】こういうバカは侮られます。
【肯定的な使用】ずるさや処世術に欠けているために、純粋無垢で善良、というイメージと結びつくことがあります。ドストエフスキーの『白痴』やトルストイの『イワンの馬鹿』、遠藤周作の『おバカさん』のような文学作品では、このような「バカ」が宗教的・思想的なモチーフにまで達しています。また、「きれいごと」を素朴に信じていると見なされるために、誰にとっても理解可能な範囲に収まる、安心・安全な存在として扱われることもあります。
 ということで、この意味の「バカ」を他と区別して「ウスラバカ」と呼ぶことにします。

②言動や考え方、あるいは出来事の性質が期待される基準より劣っているため、何の利益や効用ももたらさないと考えられること・さま。またはそういう言動や考え方をする人。くだらないこと・さま・人。
【対象】「バカなことを言うな」と人を叱る場合のように、どちらかといえば人物そのものよりその言動や考え方を指すことが多く、「バカな目に合う」「期待してたのにバカを見た」などのように出来事や状況を指す場合もあります。人に対して使う場合は、人格を否定する意味になりえます。
【尺度】期待される質的レベルに対する優・劣や高・低、上・下という基準から判断されます。
【他人の反応】こういうバカは蔑まれます。
【対義語】「立派」、「有意義」、「高尚」など。
【肯定的な使用】堅苦しさや気どりのない、率直さや開放感のイメージと結びつくことがあります。また、緊張した状態に緩和をもたらして笑いを引き出すこともあります。ですから、意図的に笑わせようと下らないことをした人に対して笑いながら「バカ」と言う場合は、「面白い」という意味を含みます。
 ということで、この意味の「バカ」を他と区別して「クソバカ」と呼ぶことにします。

③言動や出来事が社会的な常識で理解できる範囲を超えていると考えられること・人・さま。おかしなこと・人・さま。
【対象】こちらも「そんなバカなことがあるか」「バカげている」というように、人と関係のない使い方をすることがよくあります。しかし非常識な人を指すのに使う場合も多く、それも単に常識を知らないというよりは、常識を逸脱した、わけのわからない言動をする人に対して用いられます。
【尺度】優・劣という基準は必ずしも適用されず、それよりも常識や一般的な理解力の範囲の内・外ということが尺度になります。
【人の反応】こういうバカは疎まれます。
【対義語】「まとも」、「普通」、「合理的」など。
【肯定的な使用】「常識」というものを「束縛」や「凡庸さ」と解釈すれば、この「バカ」は才能の特異さ、発想や生き方の自由さ、創造性やイノベーションのイメージと結びつきます。そのためにアントニオ猪木の「バカになれ」のように人生論や自己啓発の文脈でも使われますし、「クソバカ」とは違う意味での面白さを表すこともあります。
 ということで、この意味の「バカ」をを他と区別して「トンデモバカ」と呼ぶことにします。

④何らかの思い込みや誤解、あるいは信念やイデオロギーの信奉などを相対化できないため、異なる意見や考え方を理解できなかったり検討できなかったりすると見なされる人・さま・こと。かたくなな人・さま・こと。
【対象】ウスラバカ同様、主に人そのものや人の言動、考え方に対して使われますが、個人だけでなく、何らかのカテゴリーに収まる集団を指すこともよくあります。特に議論や論評の場で意見がまるきりかみ合わない人(たち)に対してよく使われます。
【尺度】こちらも優・劣が基本的な尺度ですが、硬・軟、剛・柔のような量的尺度からも判断されます。また、判断の過程では正・邪、真・偽など、さまざまな質的基準が関わります。
【人の反応】こういうバカは難じられます。
【対義語】「柔軟」、「寛容」、「現実的」など。
【肯定的な使用】信念の内容がよいものと見なされれば、それへのこだわりが過剰であっても、一貫性や意志の強さとして、時には賞賛されることさえあります。肯定的な意味でのこの「バカ」は「愚直」と同義ともいえ、自称する場合はプライドの表現にもなります。
 というわけで、この意味の「バカ」を他と区別して「ゴリバカ」と呼ぶことにします。

 以上が私の考えた、「バカ」という言葉の4つの意味です。
 もちろん人が「バカ」と言う場合に、必ずこれらのうちのどれか一つだけの意味で言っている、というわけではありません。4つの意味をすべて含んでいる場合もありうると思いますし、4つのうち2つ、あるいは3つの意を帯びていることもあるはずです。
 例えば、あいつは常識はずれだから場所柄もわきまえずにバカなスケベ話をするんだ、と思ったのなら「クソバカ」と「トンデモバカ」の両方の意味があるといえます。また、「トンデモバカ」を常識についての無知ととらえたり、「クソバカ」な発言を教養の欠如ととらえたりすれば、どちらの「バカ」も「ウスラバカ」の意味を帯びるでしょう。
 また、「ゴリバカ」の思い込みが非常識なものであれば「トンデモバカ」の意味にもなります。逆に、常識に凝り固まり自由にものを考えられない人は「ゴリバカ」とはいえても、「トンデモバカ」とは正反対と思われます。むしろ、自由な思考ができないことを思考力の欠如と見なして「ウスラバカ」とはいえそうです。もちろん、思い込みがくだらないものであれば「クソバカ」とも見なせます。
 しかし、強いて言うならメインの意味はこれかな、というのはあるかと思います。

「いつも油を売ってバカ(A)なことを言ってばかりで、エクセルの使い方もまともに知らないお前みたいなバカ(B)が出世するなんて、そんなバカ(C)な話があっていいのか! それともまじめに働いてきた私がバカ(D)だったのか…」

 この例文に出てくる4つの「バカ」のうち、Aは「クソバカ」、Bは「ウスラバカ」、Cは「トンデモバカ」、Dは「ゴリバカ」がメインの意味になっていると思われます。
 この場合は比較的きっちり分かれているように感じられますが、仕事中に「クソバカ」なことばかり言っているのは非常識であり、知的能力が社会的な標準に達していないからだ、とこの文の語り手は言いたがっているのかもしれません。そうだとすればAは「トンデモバカ」や「ウスラバカ」の意味も帯びます。それからBにも「常識では理解できない奴」という意味や「くだらない奴」、つまり「トンデモバカ」や「クソバカ」の意味が含まれていそうです。またDも、仕事というものについて理解する能力が自分にはなかった、つまり「ウスラバカ」だったのでは、という思いが含まれているでしょう。

4つ合わせて「BQT」

 以上の分け方は、語義の分類としてだけでなく、いろいろな観点から「バカ」を考察するのに役立つかもしれないと私は考えています。
 ここまでさまざまな辞書に目を通し、一生懸命考えた末に生まれた4つ子のようなものたちですから、何か名前を付けてやりたいとバカなことを思いまして、いろいろ検討した末、「バカ」のカルテットということで「バカルテット」略してBQTとすることに決めました。
 「バカルテット」なんて、売れないコントグループのようで、なかなかな名前ではないかと思っています。
 それはともかくとして、一つだけ注意していただきたいのは、この分類はあくまで「バカ」の語義、つまり「バカ」という言葉がどう使われているかの分類であって、現実に存在するバカの分類ではないということです。『新明解国語辞典』の第八版にならって「~と見なされる」「~と考えられる」と文末に入れて判断であることを強調しているのも、そのことを明確にしたいからです。私がしたことは「バカ」の分類ではなく、「バカ」という言葉の分解だといってもいいと思います。
 上記の私の説明には紛らわしいところがあるかもしれませんが、ともかくこの点についてはじゅうぶん留意していただきたいと思います。

感動詞としての「バカ」

 ところで、「「バカ」の語義(2)」において三省堂の『大辞林』を見た際、気になる語釈がありました。

相手をののしったり,制止したりするとき発する言葉。「―,やめろ」

松村明編『大辞林 第四版』

 『大辞林』は、この場合の「バカ」を感動詞としていました。感動詞は、その言葉自体で何かを意味しているというより、ある状況でそれを言うことが何らかの感情を表現することになるような言葉です。「ブラボー!」も典型的な感動詞です。
 実際、私たちがカッとなったり、あわてて何かをやめさせようとして「バカ!」と怒鳴る場合、自分が相手をバカだと思っているという意思伝達をしようとしているわけではなく、ただ怒りをぶつけるとか、相手の行動をやめさせるとかいうことだけを意図していることが多いと思います。こういう場合は、その「バカ」という言葉がどの意味かということは問題にならないと思います。
 また、次のような用例ではどうでしょう。

すると主人は失望と怒りを掻き交ぜたような声をして、座敷の中から「この馬鹿野郎」と怒鳴った。この主人は人を罵るときは必ず馬鹿野郎というのが癖である。外に悪口の言いようを知らないのだから仕方がないが、今まで辛棒した人の気も知らないで、むやみに馬鹿野郎よばわりは失敬だと思う。それも平生吾輩が彼の背中へ乗る時に少しは好い顔でもするならこの漫罵も甘んじて受けるが、こっちの便利になる事は何一つ快くしてくれた事もないのに、小便に立ったのを馬鹿野郎とはひどい。

夏目漱石『吾輩は猫である』

 これは『吾輩は猫である』からの引用で、苦沙弥先生が寝ている猫(「吾輩」)を写生していると、目覚めた「吾輩」が尿意をこらえきれなくなって立ち上がってしまったので、先生が不機嫌になった、という場面です。
 この場面での「馬鹿野郎」は、自分の気持ちを理解できないということで猫を「ウスラバカ」と判断しているようにも取れます。しかし苦沙弥先生は、猫がほんとうに人の気持ちを理解できるとは思っていないはずです(実際には理解しているのですが)。
 文中にあるように「馬鹿野郎」は口癖らしいので、何かいやなことがあったとか、感情が激したときなど、何かというと苦沙弥先生は「馬鹿野郎」と言っているのだと思われます(作者の漱石もそういう人だったそうです)。ですから先ほどの場面でも苦沙弥先生は、猫が「馬鹿野郎」だと判断して言っているのではなく、ただ感情のままに怒鳴っているだけです。つまり苦沙弥先生は「悪態」をついたわけです。
 このように必ずしも判断を伴わない、感情の発露や呼びかけとして思わず発してしまう「バカ」を、『大辞林』にならって「感動詞としての「バカ」」と呼ぶことにします。
 もちろん、感動詞としての「バカ」が同時にBQTのうちのいずれかである、ということはよくあります。そんなこともわからないのか、と頭にきて思わず「バカ!」と怒鳴る場合もあるでしょうし、車が激しく行き交っているのに赤信号を渡ろうとした人を制止しようとするときには、相手の判断力の欠如や非常識を感じているでしょう。必ずしもBQTか感動詞かどちらかということではありません。
 そもそもBQTの意味で「バカ」と言う場合にも、何らかの感情が働いているのではないか、ということは十分に考えられることです。『新明解国語辞典』の説明で見たように、親しみを込めて使う場合もあります。。
 「『バカ』の語義(2)」で少し触れたように、このような「バカ」の使い方について考察するには語用論の考え方が必要になりますが、これは別の機会に譲りたいと思います。

◎参考・引用文献
松村明編『大辞林 第四版』 三省堂、2019年
夏目漱石『吾輩は猫である』 岩波文庫、1990年

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