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その先にあるもの (短編)



*この小説は作り話であり、
実際の団体や人物とは関係がありません*




 「そう、そうね、大変じゃないなんてことないわ」

 歌うように、彼女は言った。泡だらけのスポンジを手に、汚れたカレー皿と戦いながら。かろやかな音楽を漂わせた、いつまでも夢みる少女のようなひと。その傍にいて感じるのは、心のなかにある涸れない泉の存在。ぼくでなくとも、ついつい引き寄せられてしまう。

 「なんでいまさらそんなこと聞くの?」
 
 もういちど聞きたくなったのだ。彼女の口から、地べたの証しを。日曜の午後。お盆を過ぎて、キッチンの窓の外、木槿の花がやさしく咲いている庭を、ほんの少しだけ涼しい風が吹くようになってきた信州の夏。

 「なんどだってあるわ、教会なんて辞めてしまいたいと思ったことくらい。でも教会に住んでいるのよ、嫌になったって逃げられもしない。わたしはこんなに未熟な人間だというのに、責任があまりに重いので、放り出してしまいたいと思ったこともあるわ」

 「裏切りも、酷いことも、開いた口の塞がらないようなことも、いろいろあるわ、教会に住んでいると。裏も表もぜんぶ知ってしまうの、知りたくもないようなことを。それでも涼しい顔をしてなくちゃいけないの、副牧師夫人でしたものね」

 「嫁いできたときは、こんなに大変だなんて知らなかった。世間知らずなせいで、いろいろ失敗もしたわ。たくさん傷付きもしたし。でもそのたび真木に言われたの、右の頬を打たれたら、左も差し出しなさいって。正直歯痒いと思ったことだってあるわ」 

 「時として、教会は洗濯桶みたい、と思うことがあるわ。ざぶざぶ、ごしごしと洗われて、灰汁を飲まされるの。とても苦しいわ。痛みを感じることさえあるわ。でも灰を飲むことによって、わたしは内側から洗われていくの。まだまだだけれど、それでも昔に比べれば、だいぶ綺麗になったんじゃないかと思うわ」

 ぼくは初めて来たときから、歌うように苦労を語るこのひとが不思議でならなかった。もう十年以上も前、まだふたりとも二十代だった頃のこと。ぼくは神を知らない気ままな罪人だったけれど、ひとつ年上の彼女は、教会に暮らし、教会に生き、掃除と料理と奉仕とを、その小さな肩に背負っていた。

 ここはぼくの教会であり、彼女の家でもある。この松本の街にぽつんと残された、樹木に囲まれた古い豪壮なお屋敷。去年亡くなったご主人は、この由緒正しい旧家のご当主で、彼女は武士の血をひく、開業医のひとり娘。それだけなら地方都市の上流な夫婦でしかないけれど、彼らはキリストにすべてを捧げてしまった種族に属していた。

 「去年のゴールデンウィーク集会のこと、覚えてらっしゃる?」

 もちろん覚えてる。アメリカからステファンさんという老牧師が来て、ひとが大勢集まった。思い返してみると、なんだか透きとおった金のような日々。

 「せっかくステファン牧師がいらしてくださるのですもの、色んなひとに来ていただきたいと思ったわ。さきちゃんも誘ったの。久米さん、あなたに恋していた、あのさきちゃんよ。もうずっと教会には来てなかったでしょう、でも繋がりは絶えてなかったの」

 「さきちゃんは言葉を濁してたわ。断られるんだろうなって、わたしにもわかったの。断られると分かっていて、誘うのは辛いことね。気まずい電話だったわ。連休は石垣島で過ごすのですって。最後にさきちゃんが言ったの、八枝さんはどこにも行けないんですか、いつもいつも教会に縛られてるみたいって」

 「わたしはさきちゃんの躓きの石だったのかしら。わたしが無様に足掻いている姿が、さきちゃんを教会から遠ざけたのかしら、と思ったわ。わたしはさきちゃんに、その先にあるものを見いだして欲しかったのに。教会にいるイケメンの王子様なんかのもっと先を。ええ、久米さん、勿論これはあなたへの皮肉よ」

 まるで聞こえなかったふりをして、ぼくは手持ち無沙汰に、その辺の布巾でコンロを拭いた。黒い硝子に、ゆがんだ顔が映る。三十七にもなって王子様か。皮肉でさえなければ、喜んで受けとるのに。

 「忙しい一週間だったわ。まるでなにかが起こる予感のように、色んなことが降っては沸いたの。真木は風邪を引くし、廊下は雨漏りしだすし、洗濯機は壊れてしまうし。38℃の熱を出して咳込みながら、真木が言うの。悪魔が躍起になっているからには、これはすばらしい集会になるに違いないって」

 「わたし、ステファン牧師のことがちょっと怖かったの。とても霊的で、預言者の賜物のある方だと聞いていたから、なんだかすべて見抜かれてしまいそうって。でもお優しい方だったわ。本当はとても神経質な方なのだと思うけれど、それを礼儀正しく、微笑みで包み隠していらっして。真木やパウロさんが彼のことを、父親のように慕う理由が分かった気がした」

 「やるべきことは山ほどもあったわ。ステファン牧師も合わせて、合計十二人も泊まりのお客さまがいたのですもの。岐阜や新潟や名古屋、東京や山梨からも、色んな国の方がいらっしゃるでしょう。炊事から何からまるで軍隊なのに、真木は風邪で寝込んでいるし、すこし困ってしまった。でも目に見えない指揮者に操られているみたいに、みなさんがあれやこれや助けてくださったの」

 「わたしは二日目のステファン牧師の通訳をしたの。その日のお説教は、サウロ王、ダビデ王、アブシャロム王のお話。聖霊の力を外側にまとうことと、聖霊によって心を内側から砕かれることの違いについて。とても重いテーマだったけれど、渦のように迫ってくる説教で、わたしも自分の能力以上に訳せている気がしたわ。聴衆に火が点火していく感覚さえした。すると突然、停電が起きたの。びっくりしてステファン牧師を見たら、あの方はにやりと笑われて、何事もなかったかのように、薄暗い座敷で、また炎のような説教をお続けになったの」

 「それから洗足式があったわ。わたしたち女性は、ここキッチンに集まった。あのとき、わたしは少し沈んでいたの。不手際があって、ちょっと叱られてしまって。足を洗い合っているみんなの輪に、すこし入りたくない気分がした。いちばん最後まで残ってたら、チェンさんが無理にわたしを座らせて、ぎゅっと肩を抱いてくださったの。ヤエちゃんのことはわたしが分かってるからネ、と仰って、わたしの足を洗いながら、とても美しいお祈りをしてくださった。わたし、子どもみたいに泣いてしまった」

 「最後の日は、ほんとうに美しかったわ。ルシアさんがとても美味しいスペイン料理をこれでもかと作ってくださったので、わたしは気ままな娘時代に帰ったみたいな気でいられたの。賛美はまるで天国の領域に登っていくみたいだったし。そのときに感じたの、透明な水が流れていて、そこに沈んでいる砂金を、手を浸して掬っているようなイメージを。ああ、これがほんとうのゴールデンウィークだわ、と思った。この瞬間のためなら、休暇や自由を犠牲にするなんて何でもないと。だってわたしは、目には見えない神さまの領域にふれていたのですもの」

 「あの日の終わりに、真木が短い説教をしたの、覚えてらっしゃる? やっと熱が下がったばかりの真木が。わたしは座敷の後ろの方で、立ちながら聞いていたわ。遠くから客観的になってみると、疲れていたからでしょうね、あら、このひとはまるでお祖父ちゃんに見えるわと驚いた。あのとき、真木がわたしの方を見て言ったの。足を掬われてはいけない、先へ進み続けなさい。たとえ誰が脱落しようとも、自分だけは進み続けないといけない。辛くなったら思い出しなさい、あなたは退いて、神に任せるだけで良いのだと。進み続けなさい、この祝福された苦しみの道を……」

 それから暫くした夏の宵に、彼はあちらへ渡って行った。かすかに光の翳った広いキッチンに立ちながら、静かに目を潤ませているこの美しいひとを残して。つい数日前にぼくたちは、灯火を絶やさないための約束を交わした。ステパノが石で打ち殺されても、神さまはパウロを呼び起こして、決して灯火を絶やすことをなさらなかったように。

 ぼくには見えている。地べたの苦しみの先、人間の愚かさの先にあるものが。すぐそこに存在する目には見えない領域から、ぼくたちに呼びかける声がする。―もっと高くから見てごらん、わたしはあなたの想像より遥かに大きいのだから。わたしの見ているこの美しい絵が、あなたにも見えたなら分かるだろうに。

 「久米さんが助けてくださるなら」

 おもむろに美しいひとが言った。地べたで戦い続けてきた十数年は、彼女の魂を美しくした。ぼくがキリストに出逢うきっかけを作ってくれたのは、決して自分を偽ることなく、ただその生き方でキリストを語っていたこのひとだった。

 「……ぼくは真木さんと違って、お説教は出来ませんからね。まずは料理の手伝いでも仕込むところから始めたらどうです?」

 美しいひとは、ふふふと笑った。庭を村雨が通りすぎた。淡いピンクの木槿の花から、霧が立ち込めているなかを、ぼくは借りた傘を振り回しながら屋敷を出た。雨あがりの街を、ステップでも踏みたいような気分で。





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