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心の中の扉 ウィリアム・ブランハムの説教より (日本語訳)



 毎週木曜日の夜、オンライン聖書講座の通訳をしています。これは、そこで使うために訳した、ウィリアム・ブランハム (1909-1965、アメリカ) の説教の短い断片を、まとめて記事にするシリーズの二作目です。

↓一作目




 さあ、ちょっと考えてみてみましょうか。ひとの心のドアのなかに、またドアがあることを。

 「さあ、イエスさま、わたしの心においでください。死んでから苦しみたくはありませんから。あなたを救い主として、受け入れます。でもご主人さまとは、認めたくありません」

 なんて、ひとびとは言いますね。でもそれはどうなんでしょう。キリストを救い主として受け入れたのに、みずからの主としては認めないというのは。キリストが主なら、すべての主人になるわけです。あなたのすべての。キリストは主人なわけですから。あなたの心のどの部分においても、キリストは歓迎されなくてはならない。



 「イエスさま、来てください。でもクローゼットの中身は見ないでね。ドアの傍の椅子に座っていてくださいな。でもこのクローゼットは開けちゃいけません」

 そんなことを言っているなら、キリストはあなたの主ではないということです。すべての空間、すべての部屋へ招きいれないのなら。人生のちょっとした秘密すべてに踏みこむ許可を、主に与えなくてはなりません。それでこそ、主と呼べるのです。

 なぜキリストは、あなたの心に入りたいと思われるのでしょう? それはあなたの主になるためです。彼はドアを叩いて、あなたの救い主になろうとされている。でも悪意や我がままやプライドを心に秘めつづけるなら、キリストはあなたの主になれないのです。キリストを受け入れても、主にはできない。キリストが主なら、すべての主人になるのです。そのために、戸を叩いておられるのです。



 だれしも、神の愛によって終身奴隷になっているか、それともこの世と悪魔との奴隷になっているかの、いずれかです。ほんとうに大変なことではありますが、奴隷であるからには、一生涯かけて、神に仕えたいものです。奴隷というのは、召使いでもあります。イエスキリストの召使いになるためには、みずからを奴隷とし、十字架につけねばなりません。おお、神さま、これを理解できたなら! 

 みずからを、肉体も、欲望も、十字架につけること。神があなたの心を支配して、あなたを動かし、動機を与えてくださること。それこそキリストの奴隷です。終身奴隷、とパウロは言いました。パウロはみずからを、主イエスの奴隷と呼んだのです。主イエスに終身仕える奴隷。日々その肉を十字架につけて。イエスキリストの奴隷となること。奴隷であることを、喜んでいたのです。そう、そのとおり。



 もし使徒行伝のなかで、聖霊がなにかをなさったのなら、今だって同じことをなされるのです。使徒行伝というのは、使徒たちの行いを伝える本ではないのです。使徒たちのなかに宿る、聖霊の行いを伝える書なのです。今だって、同じ聖霊が教会に宿っています。だから同じように行い、同じような結果を残すことができるのです。聖霊降臨の日と同じちからが、大空に満ち満ちているというのに、どうして代わりのもので我慢するというのですか。代わりなんか要りません。本物が手に入るのですから。



 神の天使は、あなたを一歩一歩導いてくださいます。試練が辛すぎる、と思うこともあるでしょう。神さまは急いでなどおられません。あなたが急いでいるだけです。ヘブライ人の少年たちは、燃えさかる炉のなかまで連れていかれました。ダニエルも獅子の檻に入れられました。神さまが現れてくださるまえに。さあ、立ち上がって、信仰によって歩みだしなさい。

 「神さま、あなたを信じます。わたしは約束の地に行くと決まっているのですから。あなたがそう約束くださったのですから、わたしは信じます。聖霊に従ってゆきます。きょう、わたしはここを出ていき、この世に、わたしはイエスキリストを信じていると示してやります。わたしの癒しを受け入れます。信仰によって歩みます」



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