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牧師が拾ってきた天使

 ある雨の日曜日、牧師が天使を連れてきた。いや、拾ってきたというべきかもしれない。その頃教会として借りていた貸しホールの隣の、コンビニの横で傘も差さずにうずくまっていたらしい。わたしが見たとき、十日間ろくに食べていなかったというその天使は、ツナマヨネーズのお握りを頬張っていた。

 どこに寝泊まりされているんですか、という問いに、野っぱらで寝っころがっているだよ、と答えた天使は、とてもすごい臭いがした。その言葉に、わたしは近くの河川敷を想像した。子どもたちを連れて遊びに行く河原には、確かにホームレスのひとたちの家があった。けれど寝っころがっている、という天使は、身の回りの品をひとつも身につけておらず、ブルーシートや廃品で整えられた家にさえ住んではいないらしかった。あの草っぱらで、彼は大地とひとつになっているらしい。

 でも最近雨が多いでしょう、と誰かが問うたけれども、それは愚問だった。天使は、そんなの関係ねえよ、と不機嫌そうに言った。何週間も前に財布も鞄もぜんぶみんな盗っていかれちまった、と。礼拝が始まる前に、牧師はすこし済まなそうな顔をして、あのひとを外に放置したまま、神さまの愛について説教することなど出来なかった、と言った。

 天使の足はひどく膿んでいて、靴は形を成していなかった。それでも律儀に、彼はマスクをしていた。もう何週間も着けているらしい、黒い染みが輪のようになった使い捨てマスクだった。自然に、誰かに命じられたわけでもなく、わたしたちはひとつのチームとなって動いた。食べ物や保存食、新しいマスクに雨具、包帯に軟膏、新しい下着や身の回りの品、それにちょっとしたお金が集まった。

 足を洗わせてください、と天使の足元にひざまづいて、その足を濡れタオルで拭いていると、まだ小さかった息子がやってきて、ママ、ママとわたしに纏わりついた。それを見て、天使ははじめてその表情を緩めると、賢そうな坊主だね、と言ってくれた。わたしは昔のことを思い出した。

 まだ十歳のときだった。冬の近づいたある日、母とわたしは、他のクリスチャンの姉妹たちと、どこかの河川敷を訪れた。みんなどちらかと言えば貧しかったので、大したものは用意できなかった。配ったのは、ビニール袋にホッカイロと千円札とみことばのカードが入ったものだったろうか。恐る恐るダンボールハウスを一軒ずつ巡った。親切なひとが多かった気がする。わたしが覚えているのは、ひとりのお婆さん。女性同士だったからか、そのお婆さんとは話が弾んでいた。なんの話だったかは覚えていない。きっと彼女の人生について。母の傍にぽかんと立っていたわたしに、お婆さんは言った。あんたは偉い、いつか総理大臣になるよ。なんでお婆さんがそんなことを言ったのか、ずっとわからなかった。大人になって、政治家ではなくただの母親になったわたしは、天使の足を洗いながら、そんなことを思い出していた。

 彼の臭いは、実際耐えられないほどだった。そして足にこびりついた膿みと傷は、素人には手足も出ないほど酷い状態だった。すると看護助手をしていた女の子が、凛々しい表情で腕捲りすると、天使の足に包帯を巻き、本格的な手当てをしてくれた。礼拝が終わってから、天使の今後を話し合った。天使に身寄りはなく、むかし頭を打った後遺症で、記憶があやふやらしい。それでも懸命に、明日ソーシャルワーカーと会う約束を思い出してくれた。今晩泊まるためのホテルを探しに、あるとても親切な家族が天使を連れて行ってくれた。車に乗り込むとき、天使は牧師が脱いで与えたウールのジャケットを着て、流浪の紳士のように見えなくもなかった。

 それからの出来事は聞き書きである。彼らはホテルに断られて、路頭に迷い、近くに住んでいたある夫婦のアパートへ向かった。その夫婦は、自宅に天使を迎えいれ、お風呂を貸して、カレーを夕食に振る舞ってくれた。その夜、彼らの狭いアパートに六人が寝たらしい。そして翌朝、天使はソーシャルワーカーのもとに送られた。シャワーを浴びてさっぱりした彼は、見違えるようにダンディーだった。あたらしい靴も履いていた。天使を迎えいれた旦那さんがあげた靴だった。

 そのあと彼がどうなったのか、わたしたちは知らない。また会えたら、と思っていたけれど、連絡の付きようもない相手で、まるで幻ででもあったかのように、忽然と現れ、忽然と消えてしまった。だからわたしたちは、彼は天使だったのかもしれない、と思っている。聖書に、「旅人をもてなしなさい。あるひとたちはそのようにして、知らず知らずに天使をもてなしていたのです」と書いてあるから。

 家に臭いが付くのも承知で、路頭に迷った彼に一晩の宿をした夫婦は、それから赤ちゃんに恵まれた。その赤ちゃんは、もう一歳になって、教会のなかをあちこち駆けずり回って目が離せない。わたしたちは念願の教会堂を借りることができた。あのあと、わたしたちはひとつになった感覚がしていた。キリストのために、みんながひとつの霊に動かされて何かを為した感覚。

 だからきっと彼は天使だった。神さまからの使いだった。わたしたちは、神さまから愛することを教えられている。

 

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