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会津のはなし



 平凡なわたしには、物語とてないけれど、いつ思い出しても、胸をつまされるような、悲惨で、うつくしいものがたりがひとつある。生きて体験したわけではないのに、わたしの血のなかで生きている、先祖たちの物語。

 八代子というなまえの、わたしの五代前の祖母は、会津藩家老、西郷頼母の妹だった。同藩の井深家に嫁いだかのじょは、一八六八年八月二三日、官軍が会津城下に侵攻してきた日に、実家に残してきた母や義姉、妹や姪たちを、ひとり残らず失っている。みな、自刃して死んだ。
 
 八代子自身、実家のひとたちと運命を共にしようと思っていたらしい。潔く一家で自刃しようと。けれど生きよ、としつこく説いてくれたひとがいて、城に避難することにした。あの日、親戚には、西郷家の二十一人のみならず、沼沢家のひとびと、柴太一郎家のひとびとなど、死を選んだひとがたくさんいた。

 遠雷のような砲声が、遥かから近づいてきて、城下街に迫っていた。夫の宅右衛門は、五百五十石の主で、日新館の学校奉行をしていたが、遊撃隊をひきい、北越方面に出向いていて、正月からずっと不在だった。頼みの長男はまだ十五歳、白虎隊にさえ入れてもらえない若さだが、それでも前日の家並触に応じて、筒袖の洋装に、単発の旧式銃を中間に持たせ、もう登城してしまっていて、これもまた留守であった。

 朝餉を食べ終える暇もなかった。騒々しい気配がして、次男が外を覗くと、手に槍をもち、血を流したひとが通りかかりながら、「敵はもうすぐそこまで来たから逃げろ!」と叫んだ。大いそぎで避難の準備をすすめたが、もう家の障子や壁に、敵弾がぷつりぷつりと当たるくらいに、戦場のただなかに残されてしまっていた。

 うしろから弾が飛んでくるなかを、城のほうへと急いだ。七才の娘を背負うた召使が、着物の肩先を撃ち抜かれたことさえあった。老人と女、子どもばかりの一行で、無事に城に入れたのは奇跡にひとしかった。到着したとき、城門はもう鎖されていた。そこで諦めて去ったひとたちもいたが、井深家のひとびとは交渉の結果、小門から入ることを許されて、命拾いをした。

 その日から籠城戦は、一ヶ月にも及んだ。八代子はほかの婦人たちと奥で働き、長男の梶之助は、容保公のご小姓に召し出された。昼夜のべつなく、砲弾が頭上を行き交い、爆裂して、火炎を噴き上げる三十日間だった。井深家のひとびとは、ふしぎにも、みなこの地獄を生き延びた。
 
 わたしの高祖母にあたる、八代子の次女みえは、明治になってから、やはり元藩士の和田又四郎というひとに嫁いだのだが、その父大助は、籠城戦も終わろうという九月十九日、三の丸で傷を負い、城内で死んだそうだ。大砲に当たったのだろうか。

 生き残ったからとて、苦しみは終わらなかった。そこから猪苗代に、斗南に移されて、会津のひとたちは北の果てで、食うや食わずの日々を送った。やっと会津に帰ってきても、八代子の夫、宅右衛門は武士の商売に失敗し、裏長屋のような家に暮らした。横浜のブラウン塾で、苦学生をしながら英語をまなぶ、長男の仕送りを頼りにするような、そんな生活だった。
 
 そんな先祖たちのことを、よく思い出す。どうしていまも生きているんだろう、とふしぎになりながら。朝敵と呼ばれたって、お城を蜂の巣のように穴ぼこにされたって、下北半島に流罪にされたって、決して滅びなかった先祖たち。

 会津には、二度行った。いちどめは十六才で、まだ何にも知らなかった。東山にある会津武家屋敷の、復元された西郷頼母邸で、そういえばここはあなたのご先祖の屋敷よ、と母に言われた。玄関にかかる暖簾の九曜紋をみて、亡くなった父のことばを、思い出したらしい。武家屋敷には、自刃する婦人たちの蝋人形なんかも置いてある。さすがにそれをじぶんと結び合わせることはできなかったし、したくもなかった。

 それから会津の歴史を調べだした。まだ祖母が元気で、調べたことを伝えにいくと、とても嬉しそうにしてくれた。生前に父も、おなじように会津の先祖を調べていた、と聞かされた。似ているんだな、とみずからのうちに、知らない父を確かめるような気がした。

 二度目に訪れたときは、夫と一緒だった。お城と武家屋敷と飯盛山と、街とお墓を巡った。西郷邸がほんとうに建っていた場所も、井深邸の場所も、みな確かめた。善龍寺でなよたけの碑もみたし、曾祖父の弟の銅像まで見つけた。ふしぎな感覚が、身体のなかに震えていた。

 一泊二日の短い旅のなかに、よくもあんなに色々詰め込んだものだ、といま思う。まだ子どもがいなかったから、身軽だったのだろう。会津盆地を離れたときは、まだ昼だった。猪苗代湖をみてから帰るつもりで、高速に乗らず、峠道みたいな狭い道路をとおった。

 その道が、ほんとうに古道だったのか、官軍の進撃路に当たっていたのか、わたしには分からない。八月の終わりで、わたしは戦争のころだ、と思ったけれど、考えてみれば戊辰戦争の日付は旧暦で、一ヶ月ほどずれていたわけだ。車はくねりながら山を上っていく。後ろを振り返ると、木々の向こうに、会津盆地がよこたわっていた。

 そのとき、車内に、枯れた骨が蘇る、という旧約聖書を題材にした歌がながれた。主はエゼキエルを、枯れた骨にみちた谷に連れて行く。

 「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか?」
 「主なる神よ、あなただけがご存知です」
 主に命じられて、エゼキエルは枯れた骨に向かい、
 「生きよ」
 と預言する。

 あの戦争が終わったあと、会津のひとたちの骨は、野ざらしにされた。自刃したひと、戦死したひとたちの遺体も、拾って供養することは許されず、そのまま朽ちた。あの西郷家の二十一人の骨を、ひっそりと拾いに行ったのは、親戚のまだ十六才の娘だった。焼け落ちた家老屋敷のあとへゆき、ひとつひとつ拾って、背負子に入れて持ち帰ったという。

 枯れた骨が生き返るはずがない。生命など残っていないのだから。死んだ人間が蘇るはずはないし、絶望に希望などあるはずがない。

 しかし生きよ、とエゼキエルが預言すると、かたかた音を立てて、骨と骨が近づき、その上に筋と肉が生じて、皮膚に覆われた。神の息吹を吹きかけられて、殺されたひとたちに霊が宿り、彼らは蘇った。

 夏のひかりに照らされた、うつくしい会津盆地を後目にして、わたしのなかで、なにかふしぎなことが起きていた。心霊現象、ではないとおもう。ぞっとする感覚ではなく、なにかあたたかく、近しいものだった。わたしのなかで、先祖たちの枯れた骨が蘇ってでもいるような、ぞわぞわとする感じがした。

 「枯れた骨たちに呼びかける、生きよ」

 そんなうたを口ずさみながら、決して滅ぼされることなかった先祖たちを感じ、そして死者のなかから蘇ったイエス・キリストのこと、明治になってから聖書の神を見いだした先祖たちのこと、いまじぶんがキリストに呼ばれていること、すべてがごちゃごちゃになって、わたしは泣いた。

 あの戦争から、もう百五十六年。いまもわたしのなかに生きている、先祖たちの物語。



 参考文献

「井深梶之助とその時代」第一巻
「戊辰戦争」上下 菊池明・伊藤成郎編

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