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神さまの旅行保険

 
 「岐阜に行きませんか?」

 と牧師に誘われたとき、出不精なわたしは曖昧な返事をした。

 「主人は休みが取れるかもって言ってましたけど、まだ行こうかどうか決めてません......」
 「行くってことでいいですね。じゃあ交通手段は何にしましょうか」

 わたしの腰が重いことくらい、もうとうに承知なのであろう、押しきられるようにしてわたしたちは教会の岐阜への宣教旅行に参加することになった。

 道の駅ラリーという動画を十年前に見て以来、岐阜に行くのは夢だった。『人の子の現れるのも、ちょうどノアの時と同じだからである』という聖句にちなんで借りたノアに、大人六人子どもふたりを乗せて、夫がひとりで運転することになった。あとのひとたちは電車。うちの教会は、運転できるひとはたくさんいるけれど、日本の免許を持っているひとはほとんどいない。ちなみにわたしは免許は持っているけど、運転できない。役立たず。

 昼食後に横浜を出て、高速に乗るまでもなく渋滞に捕まった。一時間かけてやっとたどり着いた高速のランプは、螺旋をえがきながら車が数珠つなぎになっている。けれども車内は決して暗くならない。わたしたち以外のメンバーはみなフィリピン人である。タガログ語と英語 (とちょっぴり日本語) が飛び交う車内は、年の近い仲間が集まったのもあり、子連れの修学旅行のようだった。

 やっと走りだして、足柄SAの足湯カフェで子どもを遊ばせながらゆっくり食事をしていたら、楽しみにしていた静岡や愛知の景色は暮れなずんでなにも見えなかった。掛川で止まったとき外は嵐になっていて、風に吹き飛ばされるように、夫が子どもを抱きながらトイレに駆けていった。追いかけてみたら、「あめであたまぬれちゃったねえ」と子どもがじぶんの頭を撫でていた。

 とおく岐阜に住む、地元の教会と牧師を持たない中国人の姉妹たちに会いに行くこと、そこで家庭集会を開くことが旅の目的だった。昭和と平成のすべてを詰めこんだような懐かしい家に、東京からやってきたわれわれ総勢十三人は吸い込まれるようにおさまった。まるで田舎のおじいちゃんおばあちゃんのお家みたいな茶色い家は、村のお社の横に建っている。縦長のひろい神社で、石造の鳥居の横の石碑には、かすかに読み取れるような字で「日露戦役戦没者供養」と刻まれている。しずかなお社は木々に沈みこんでほとんど色がないのだけど、一本のすくっと立った満開の椿の赤と、切り株の脇に三本だけ生えている、いまにも開かんとする黄色い大きなアイリスの花だけが浮きあがっているかのようだった。
 
 到着した翌朝から集会が始まった。朝と夕方の二回。朝の集会では、わたしは子守りだったので、子どもを公園に連れていって、目の前の地主屋敷に目を奪われたりしていた。漆喰の色もくすんだ長屋門、造作の施された焼杉の板塀、屋敷林、白漆喰の蔵、まるで戦前の別荘建築のような母屋と離れ、新しい建物なんかひとつもない。敷地は何千坪くらいあったのだろう、あんなにすごい現役の地主屋敷を見たのははじめてだ。それも朽ちていなくて、ちゃんと手入れされている。大興奮して目を輝かせながら、あの屋敷をみてきて!とみんなに宣伝して回っていた。なんの宣教旅行でしょうねえ。

 それから岐阜城へ行った。金華山の手前で、鵜飼いの舟の浮かぶ長良川を越えたときのあの景色! 金華山は、チャートの地層がほぼ垂直に褶曲しているのが見物だった。ブラタモリで見たような気がする。チャートだからすべすべしてて、固いようで脆い。夫が拾ってくれて大切に手のなかで温めていた石を、石好きな子どもに渡してあげたら、秒で落として割られた。その劈面さえマーブル模様のようでうつくしかった。天守閣から、乗鞍岳や北アルプスがみえて、ああ、あちらが信濃の国だ、ぜんぶ山だ......と感動した。岐阜まで来たのに、いまわたしのこころは信濃の国で占められているのである。

 外が暗くなってから、夕方の集会が始まった。襖をぬいた二間の和室に、多国籍なひとびとが集まる。プロジェクター代わりの大きなテレビを背に、ナイジェリア人のKさんが立っている。その足下に、通訳のわたしはちょこんと座った。まわりは中国人の姉妹たちとそしてポルトガル人のご夫婦。そしてその後ろにたくさん。その日の通訳は特殊で、わたしの英→日の通訳をこんどは他の二人の通訳が日→中、そして日→葡に訳していくことになっていた。わたしはただの原材料として、ちゃんと聞き取らなくては、とにかくシンプルに、誤訳の起こらないような分かりやすい言葉に直さねばと緊張しながら、Kさんの唇の動きを見つめていた。

 「今日は保険について話しましょう」

 Kさんは言った。彼はとても大きなひとで、足元に座って見上げていると、まるで聳え立つ木のようにみえる。

 「ぼくらは誰もが保険に入りたがる時代に生きています。自転車を買えば保険に入る、家を買えば火災保険に入る。保険というのは不確かな未来に備えるものです。掛け金を払うことで、もしもの時に保証してもらえる。ぼくも毎月健康保険を払っています」

 「けれどもこの世の保険というのはトリッキーなものです。長くて複雑な規約がある。保険金を請求しようと思うと、規約のここここの何々にこうこう書いてあるから、保険金は下りませんなんて言われてしまう」

 「でも今日みなさんにご紹介したいこの特別な保険は、掛け金もなにもいらないのです。この保険からはいつでもどこでも、いくらでも配当を引き出すことができる。制限はありません」

 「これがその規約です」

 黒いコートにマフラーを巻いたKさんの手には、読み込んで皮表紙のしなった中型の聖書が掲げられている。

 「この保険は、神がその子どもたちに与えてくださったもので、保険金はもう全額払い込まれています。キリストの血がその代価でした」

 「この保険が何を保障してくれるか教えてあげましょう。健康、家計、仕事、進路、紛失物、地震、火事、第三次世界大戦、原子爆弾...... それもあなただけでなく、あなたの家族と子どもたちまで保障してくれます。いったいこんな保険がこの世にありますか?」

 「この聖書に書かれている約束はみな、この保険に入っているならすべてあなたのものなのです。信じて配当を引き出しなさい、保険金を貰いなさい。それはすべてあなたのものなのですから」

 「この保険はまた完璧な安全保障もしてくださいます。詩編91編をお読みなさい、そこに自分の名前を入れ込んでみなさい。ヘブル書に、主がわたしの助け主、わたしに恐れはない。人がわたしに何をできるだろうか、と書いてあるではありませんか」

 「この保険は、生きているあいだだけではなく、死んだ後のことまで保障してくれます。永遠の命、そして復活をも保障してくれるのです」

 「なんて素晴らしい保険でしょう。一体みなさんは何に困っているのですか、悩んでいるのですか。このBlessed Assuranceの規約を読みましたか。そこにすべてが保障されているではありませんか。求めなさい、そうすれば与えられるのです」

 集会は熱気のうちに終わった。わたしの通訳はぼろぼろだったけれど、信仰はみことばによって高められた。保険、神の保険、そのことばはわたしのなかに植えられた。

 翌日は近くの教会に招待されて、牧師がそこで説教をした。その間わたしは公園で子どもたちを追いかけまわしていた。礼拝のあとに、本棚に見つけた「昭和キリスト教受難秘録」という本を飛ばし読みしたが、壮烈であった。温かいおもてなしをしていただいて、再び同じメンバーがノアに乗り込んだ。やはり昼の一時半くらい。

 交代要員のいない唯一の運転手である夫を、いかにサポートするかというのが助手席に座るひとの課題であった。最初は男性陣ふたりとわたしの三人が交代で座りましょうか、と話していたのだけれど、彼の目の色を見て、あ、これは水を飲ませなきゃいけない表情だ、あ、眠そうだからお煎餅を渡さなきゃ、というようなのは、やはり妻であるわたしが一番上手かったので、わたしはふかふかの席を与えられた。後ろの席でガールズパーティーをしているのも楽しかったけれど。

 金華山城を左手にみながら岐阜と別れた。木曽三川を渡り、あれは恵那山かしら、そうじゃないかしら、なんて言いながら高速を飛ばしていると、後部座席のひとびとはまるでビンゴのように眠りに落ちていった。

 「Next Stop OKAZAKI 40km Away」

 そうノートに書いて後ろにかざすと、起きているひとからグッドサインが帰ってくる。皆が寝ているあいだに出来るだけ先に行ってしまいたい。岡崎はわたしの先祖の地でもあるので、たとえSAだとしても停まってみたかったのだ。助手席の特権の濫用である。

 わたしが見たかったのは、先祖西郷氏が建てたという岡崎城だったが、無論SAに停まっただけではなにも見えなかった。おかザエモンのグッズはあったけど...... 大須ういろうのおしゃれなセットをお土産に買った。みなたくさんお菓子を買い込んで、ふたたび車に乗った。こんどの助手席はMさん、ちゃんと運転手の面倒をみるのよと言われたらしく、とても甲斐甲斐しく夫の世話をしてくれていたのがなんだか可愛らしかった。彼は日本語もかなり行ける口なので、前のふたりは日本語と英語を混ぜながら会話していた。

 あれはもう静岡に入ってからだったろう。渋滞情報のところに、「御殿場ー横浜町田 45km 180分」という衝撃的な文字を見たのは。初めはまさかと思った。神奈川県内全域が渋滞ってことではないか。わたしも三列目から身をのりだして、前列の作戦会議に加わる。

 どうする? 箱根の山を超える? 御殿場から箱根ターンパイクで西湘バイパス? 箱根なんてもう真っ暗でしょうけど。いっそ車のレンタルを延ばして旅籠屋にでも泊まる? 足柄SAに泊まるとか? 二歳と六歳の子どもを連れて、45kmの渋滞に巻き込まれるのは避けたかった。

 ともかく新清水のSAで夕食を取ることにした。インフォメーションで大きな地図を貰って、ルートを考えていく。箱根の峠も混んでいるらしい、みんな考えることは同じだ。そのくらいなら渋滞の後ろに付けていく方が早いんじゃないか...... 

 「ともかくご飯にしましょう。状況なんて、三十分後には変わってしまうものだから」

 牧師が言う。地図を畳んでみながフードコートに散っていく。清水港の海鮮丼を目当てに券売機に並んだら、自分の番まで来て売り切れていた。くやしい、煮卵付きのラーメンに乗り換える。それもまたおいしかったけど。

 給水器でみんなの分の水を汲んでいると、やはり同じことを考えたらしいMさんに会う。わたしはMさんに言った、

 「渋滞も保険に含まれてますよね」
 「え? なに?」
 唐突なことばにMさんは戸惑う。

 「渋滞も保険に含まれてますから」
 わたしはそのことばをじぶんで信じるために繰り返した。

 「なんの保険?」
 「ほら、あの保険。本社が天国にあるやつ」

 ああ、とMさんが言う。そして水で満ちたうすい紙コップを一気に四つも持ちあげようとする。わたしも運びますから、と制すると、じゃあ三つ、とMさんは器用に三つ巴のコップを運んでいった。

 ずっとチャイルドシートに縛りつけられていた子どもたちは、小さなキッズコーナーで、飛びまわっていた。彼らが満足するまでそこにいたので、結局一時間ほど休憩していたのだろうか。車に帰ってきて、牧師が祈りましょうと言い、みんなで祈ってから出発した。

 渋滞はすこしずつ小間切れになり、短くなってきていた。神奈川に近づくにつれ、車は徐々に詰まっていったけれど、流れは止まらなかった。ふたたび助手席に戻ったわたしは夫と、まわりのナンバープレートにじぶんの先祖の地の名前を見つけたら勝ち、というゲームをした。夫はずっとひとつの土地に根を下ろしていたひとびとの子孫なので、なんだか不利であった。御殿場も、秦野も無事に過ぎ、厚木で降りようとそろそろ左の車線を意識しだした頃に、渋滞が始まって、暗い道路に赤いブレーキライトが溜まりはじめた。それを横目に見ながらわたしたちの車はそのまま高速を降りた。

 「神さまが渋滞から守ってくださった」

 大げさな、という思いを振り切って、わたしは呟いた。あまりにもさらりと為された神の奇跡を見過ごしてはならない、という思いで。

 「渋滞も保険に含まれていたから、わたしたち渋滞から助け出されちゃいましたね」

 それが奇跡だったことを確かめたくて、後ろに座っていた牧師に、わたしは振り向いて言った。牧師はやさしい表情で頷いた。

 それからみんなを下ろして、海沿いの道を家に帰った。暗い後部座席にひとり残された子どもは、祭りのあとのような表情で、「でんきゅうがないくらいそらを、こころがあいしてるっていうんだよ」などと前衛的なポエムを語りながら、外の景色を眺めていた。

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