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映画をめぐるメモランダム

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ある映画について、あるいはある映画作家についてあるいは…… 21世紀の日本で言及されることの少ない作品や作家についての備忘録です。
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MGMの無視された愉しみ

MGMの無視された愉しみ

 11歳の少年トーマス・クレイトン・キャンベル・ジュニア Thomas Clayton Campbell Jr. を演じるリッキー・ネルソンRicky Nelson が、ベッドに寝て、エセル・バリモア Ethel Barrymore から受け取ったリボンを右人差し指に巻きつけてこめかみにあてる。目をぎゅっとつぶり、エセル・バリモア演じるヘイゼル・ペニコット Hazel Pennicott の名前を

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ラオール・ウォルシュのアクションを再発見する

ラオール・ウォルシュのアクションを再発見する

商品としての映画

 ついさっき抽斗から取り出したはずの拳銃は紛れもなくコルトであったはずなのに、いまやその手に握られているのはルガーにすっかり変わってしまっている。これは時に肯定的な文脈において使用される「つなぎまちがい」といった創造的な地平ではなく単なる誤謬なのだが、この種の誤りを融通無碍に肯定してしまうというか、誤りのままとどめおいてしまうのは、第二次世界大戦前あるいは戦中期の映画に許された

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画面の魔力に絡めとられることの幸福さについて――フランク・ボーゼージ監督『ムーンライズ』(Moonrise,1948)

画面の魔力に絡めとられることの幸福さについて――フランク・ボーゼージ監督『ムーンライズ』(Moonrise,1948)

 何かが画面に映っているのだが、それが何かを明確に把握することができない。モノクロ、スタンダードの画面に映る輪郭の判然としない白と黒のグラデーション。やがてキャメラがそのピントを合わせると、その答えが明らかになる。それは、複数の男のスーツを纏った足の反映なのだが、キャメラはやがて右にパンし、画面手前に向かって歩いてくる3人の男の足そのものを捉えることになる。とはいえその男たちが何者であるかはわから

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コロナ時代の演じられた世界に目を凝らすこと――アベル・フェラーラAbel Ferrara監督『ゼロズ・アンド・ワンズ』(Zeros and Ones,2021)

コロナ時代の演じられた世界に目を凝らすこと――アベル・フェラーラAbel Ferrara監督『ゼロズ・アンド・ワンズ』(Zeros and Ones,2021)

 リュミエール兄弟frères Lumièreからの伝統であるかのように、ローマに列車が到着することからもの語りはじめる。列車には兵士が乗り込んでおり、その身支度の様子をキャメラは捉えているが、われわれはそのとき、彼の口元をマスクが覆っていることを見逃すことはない。やがて兵士が列車を降り歩き始めると、その背後には消毒をしている男性の姿も見えるだろう。フィクションの世界ではあるが、2020年代に突入

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女たちは、歌をうたいながら死と戯れる

女たちは、歌をうたいながら死と戯れる

 調子の外れた歌声を響かせながら、手持ちのキャメラがビルディングの垂直性を強調すると、急ぎ足でひとりの女の子が郵便受けの手紙を手早く確認し、エレベーターを呼ぶためにボタンを連打するが、待っていられず階段を駆け上がることにする。ジャン=リュック・ゴダールJean-Luc Godardの『気狂いピエロ』(Pierrot Le Fou,1965)に影響を受けて映画を撮り始めたひとりの女性によって撮られた

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ダイナミズムと適確さ、またはカーク・ダグラスはなぜリッカルド・フレーダを怖れたか――リッカルド・フレーダ監督『剣闘士スパルタカス』(Spartaco,1953)

ダイナミズムと適確さ、またはカーク・ダグラスはなぜリッカルド・フレーダを怖れたか――リッカルド・フレーダ監督『剣闘士スパルタカス』(Spartaco,1953)

 移民の子として貧民街に暮らしたカーク・ダグラスKirk Douglasは、1960年に自らが主演と製作総指揮を兼ねる形で『スパルタカス』(Spartacus,1960)を製作する。この映画でハリウッド・テンHollywood Tenのひとりとして赤狩りの影響で排斥された脚本家ダルトン・トランボDalton Trumboを起用することで彼の表舞台への復帰を援助したり、当初監督にアンソニー・マンAn

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視聴覚の、視聴覚による、視聴覚のための映画ーードン・ワイズ監督『熱砂の女盗賊』(The Adventures of Hajji Baba,1954)

視聴覚の、視聴覚による、視聴覚のための映画ーードン・ワイズ監督『熱砂の女盗賊』(The Adventures of Hajji Baba,1954)

 かつて映画は知性的であることがその評価基準とされた。そこでは、監督と呼ばれる人物の思想や主張がこめられた映画がその評価を高め、そうではない映画が低い評価を被ることとなる。日本においてはそれに反発する姿勢で蓮實重彦氏が「表層批評」と呼ばれる地平を切り拓いたのだったが、「かつて」と書いたものの、今なお「現在」の「社会情勢」であったり「社会問題」であったりという呼ばれ方をする題材を得た映画(さしあたり

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ヴィットリオ・コッタファーヴィ監督による「古代史劇映画」についての覚書

ヴィットリオ・コッタファーヴィ監督による「古代史劇映画」についての覚書

 われわれは、ヴィットリオ・コッタファーヴィVittorio Cottafaviと呼ばれるひとりのイタリア人について、ほとんど何も知ってはいない。なるほど確かに少しGoogleで検索すれば、ヴィットリオ・コッタファーヴィなる人物が王立陸軍の将校の息子という金銭的にも社会的身分の上でも恵まれた家系に属することはすぐに明らかになるだろう。だがそのことは、この人物を語る上でさしたる意味を持ってはいないと

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