見出し画像

白い猫と妻の失踪13、エリック 大抵の物事は、思っていた形で起こらない 2022

 パリのマンションに数泊して、家の様子を点検し、モンパルナス駅から列車に乗り、グラン・ヴィルに到着した。キャロールの家に帰るのは1ヶ月ぶりだ。日本旅行はとても楽しかった。

 それでもやはり、自分の家はいいものだな。と、改めて思う。特に外国から戻って自分のベッドに横になると、心からくつろいだ気持ちになった。
旅行の醍醐味は、非日常を楽しみ、そして帰宅してから日常の素晴らしさを改めて知ることだ。

 列車の中からタクシーを予約して駅に迎えに来てもらう。小さな駅なので、タクシー乗り場はなく、電話で予約しなければならない。今回は気分次第で行動したいと思って急に列車を決めた。家に近づくにつれ、私はなぜか特別な高揚を感じた。家に誰かがいるような気がして仕方がなかったのだ。

 誰かが私を待っている。家に近づくにつれ、根拠のない確信が身体中に押し寄せてきた。犬は、飼い主と自分の距離が近づいている時、かなり遠くからでもそれが解ると聞いたことがある。まさに今、そんな動物的な感覚があった。もちろん、ただのいつもの空振りの期待かもしれない。こうして何度もがっかりしてきたのだから、少しは慣れた方がいい。と、自分を落ち着かせながら、家に近づいた。

 誰かが私の家にいる。タクシーが家に近づくにつれて、私の気持ちは確信に変わった。門の前まで来ると、家のサロンの窓の雨戸が開いているが見えた。煙突から、煙が上がっている。家の管理を頼んだバイトの学生が暖炉を使うわけはない。留守中誰かが住み着いているのか。鍵を持っているのは妻とバイトの学生以外南仏に住む姉だけだ。

 妻は肌寒い日は暖炉に薪をくべて、温まるのがとても好きなのだ。だから、1年中私は庭に必ず蒔きを積んでおく。私は、タクシーの運転手にお金を渡す時間も惜しく「すみません、5分だけ待ってください。急用なんです!」と叫び、荷物もタクシーに乗せたまま車から飛び降りて家まで走った。

「ジュリエット、いるのかい?」と妻の名前を呼ぶ。返事はない。
「ジュリー?帰ってきたよ。ただいま。僕だよ!」と台所に向かう。

 すると、何食わぬ顔で、目の前にいつもの赤いチェックのエプロン姿の妻が現れた。

「あら、お帰りなさい。」と、妻はいつもの美しい笑顔で、エプロン姿でこちらを見て立っている。3年前と何一つ変わらない光景だった。こんなことがあるだろうか。あれだけあちこち探し続けて、見つからなかった妻が、家の台所に立っている。この家の流しの前に。

 私は、そこから数分間の記憶が全くない。泣いたのか、叫んだのか、抱きしめたのか、そのどれもを同時にしたらしかった。何が何だかわからなかった。ただ、喜びと安堵だけがそこにあった。抱きしめたり。キスをしたり。泣いたり、笑ったり。まだ本当に起きたこととは信じられなかった。

 今まで、どんな風に妻に再会できるのか、ありとあらゆる想定を頭の中で繰り返し繰り返し想像した。最悪のものは、警察から電話が来て、残念ながら・・・と言われることだ。そして、最高の想像は、私が探し歩いていて、灯台の近くやどこか二人の思い出の場所で、私が妻を見つけ、声をかけることだった。あるいは、彼女が家に帰ってきて、僕が「おかえり。」と、迎えること。

 まさか、こんな風に妻が家にいて、私が帰ってきて「おかえりなさい。」と迎えられる日が来るなんて、一体誰が思いつくだろう。
崖を歩いていれば、下に妻が倒れていないかと探して歩いたし。毎日、流れ着いた人物ががいないか確認しながら浜辺を歩いた。ビルの屋上から、妻の姿がないかと階下を探したりした。たいていのことは、想像する範囲内の形では起こらないものなのだ。人間の想像力なんて、たいした助けにはならない。

「どこか痛いところはない?怖いことはなかったかい?」
「大丈夫。私は元気よ。あなたは?元気なの?どこに行っていたの?荷物は?」
と、逆に質問されて、初めて私がどこに行っていたのか彼女が知らなかったことに気がついた。
「ああ、そうだ。タクシー・・・」と気がついて、慌てて荷物を取りに行き、お金を払った。

 「日本に・・・・日本に行っていたんだ。お向かいのジェラールさんの鎌倉の家さ。」
「ジェラールさん、ああ、お向かいの。彼は元気?奥様にも会えたの?」
そんな話をしている場合じゃない。私はパニックと、安堵と、あまりの驚きに何を話していいのかさっぱりわからず、放心状態でソファーに座った。

「いや、奥さんは京都にいて会えなかったんだけどね。・・・・そんなことより・・・。さあ、君の話をしよう。ここに座って。ちゃんと顔を見せて。一体何があったの。心配したんだよ。3年間探し続けたんだ。」と、妻をソファーに座らせた。

 「それが・・・私にもよくわからないの。気が付いたら、グランヴィルの灯台の前に立っていたわ。それまでのことを思い出そうとしても、何だか頭痛と眩暈がして、よく思い出せない。・・・5日前のことよ。とにかく、バスに乗って、この家に帰ってきた。・・・鍵は上着のポケットに入れていたから、すぐに入れた。携帯電話を失くしてしまったと思っていたら、ここにあったのね。この5日間、あなたに連絡しようとしたんだけれど、携帯が通じなかったから、あなたからの連絡を待っていたのよ。・・・今、あなたは3年と言った?」

「ああ、そうだ。君は3年間行方不明だったんだ。ある朝、パリの家から出かけたまま、職場にもいかず、君は消えていなくなってしまった。」
「・・・3年・・・・。私が?本当に?」

 記憶がないのだとしたら、精神障害や記憶障害だろうか。すぐに入院する必要があるかもしれない。でも、彼女の様子はとりあえず落ち着いているように見えた。とにかく今は、一分一秒でも一緒にいたかった。

 「さあ、お食事ができているから。とにかく、シャワーでも浴びてきたら?」と、まるで何事もなく、ずっとここに暮らしていたみたいに妻は言った。

 「頼むから僕が戻るまでの間に、いなくならないでね。」と、本気で念を押して、急いでシャワーを浴びた。念のため浴室のドアは開けたままにしておいた。猫はまた消えてしまっている。妻もまた消えてしまうのだろうか。もしも、僕の幻想か夢だとしても、僕は妻ともっと一緒にいたかった。

 妻は、私の好物の食事を用意してくれているらしかった。本当に記憶がないのだろうか。そんな風には全然見えなかった。
まるで真っ暗闇の真冬の家の中に突然カラフルな花が咲き乱れ、春がやってきたようだった。一人の人間が家の中にいるだけで、こんなにも世界は違って見えるのだ。
彼女は、本当にその場の雰囲気をパッと明るくする何かを持っていた。私の心を全て包み込んでくれる。こんな素晴らしい女性に出会えて、私はこの世の全てに感謝したい気持ちで一杯だった。

 それにしても、彼女の様子はまるで3年前と全く同じだった。大きな旅行や家出をしていた人には、疲れや何かしらの変化が見えるものだろう。少なくとも僕らの年齢で3年間年を重ねれば、シワが増えたり、どこかに贅肉がついたりしているものだ。
爽やかで屈託のない笑顔で料理を出す彼女の様子は、以前と何も変わらなかった。むしろ、若返り元気に美しくなったようにさえ見える。

 大きな疑問や不安が次々に湧いてきたが、まずはそれを抑えて食事をすることにした。彼女が記憶を失っているのなら、私が余計にしっかりしなくてはならない。
 とにかく、いつも通りという雰囲気を保った方がいいだろう。と、判断して、彼女の得意料理のブランケットを食べることにする。二人でワインで乾杯し、暖かいブランケットを食べ始めると、いつもの当たり前の日常が戻ってきたという実感があった。

 この料理の作り方を教えたのは、私だ。もともとは私の父のレシピを少しアレンジして、妻によく作ってあげていたので、妻はノートに丁寧にスケッチをしながらレシピを書き留めてた。そのレシピノートは、この台所の右の棚にいつでも手に取れるように、置いてあった。妻がいない間も。そのレシピノートが、キッチンに広げられて置いてある。料理は、暖かくて懐かしい味がした。
私が彼女に食べさせるつもりで、3年前に彼女が失踪した日にパリで作った料理と偶然にも同じメニューだった。

 私はかなりお喋りになっている。何を話せばいいかわからないので、旅行の話や思い出話をしてみた。そして妻の料理を食べた。こんな風にまた妻の料理を食べる日が来るなんて、まだ信じられない気持ちだ。なんだか、こうしていると気が狂ったみたいに妻を探し歩いたことの方が、作り話のような気がした。ずっと僕らは何の変化もなく、こうして普通に暮らしていたのではという気さえしてきた。

 僕の方が夢を見ていただけなのかもしれない。そんな気分だった。こうして妻に会えただけで、僕はとにかく幸せだった。

 あまりにも妻が元気そうなので、拍子抜けしてしまった。少し気を楽に持とう。考えてみたら、妻が帰ってきたのなら、それで全て解決じゃないか!と、自分に言い聞かせた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?