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「書く」ことについて。ちょっと長い自己紹介と、インタビューの準備を兼ねて。

自己紹介って、ふつうにやると「属性」とかやってきた「実績」の羅列になってしまうなあと思い、なかなか書けないでいたのですが、「書く」を軸にして書けば、それがそのまま自己紹介になるなあと、ふと思ったので書いてみます。

noteを始めたきっかけ

2月末に新型コロナウイルスの感染拡大への影響を鑑みて、予定していた自社のイベントをすべて開催中止にし、その後は少しのコンサルや打ち合わせ以外はずっと自宅にいることになりました。当初から、少なくとも3~4か月くらいは引きこもるだろうと予測をしていました。ワークショップや講座など、リアルな場づくりをしてきたので、それはしばらくないだろうなと。

そこで、これはチャンス!だと思いました。たしかに仕事はガクっと減りますが、逆にあまり仕事のことを考えず、やりたいことに没頭できる時間を与えられたのだと。そこで、周りの方々がどんどんオンライン研修やオンラインの場づくりに猛進しているなか、一人ぽつんと引きこもり、noteを始めました。書くことを歯磨きのような「当たり前の」習慣にすること。そして、書く筋肉をしなやかに鍛えることを目的として。

最初はこんなことして本当に意味があるのかと思いながら半信半疑で続けていました。更新を重荷に感じることもありました。だけど、続けていくことで「積み重なるもの」、「変わっていくもの」、「見えてくるもの」があるだろうということを、当初から思っていました。

「積み重なるもの」は、成果としての文章の量ももちろん、継続することで自分はそれをやったという自分への信頼や承認が増すこと。

「変わっていくもの」は、自分の意識。誰かの目や評価を気にして書くのではなく、自分の芯や軸とつながった文章、自分がちゃん乗っかった生きた文章に変わっていくのではないかということ。

「見えてくるもの」は、例えば毎日書くことによって、世界をよく見るようになるということ。それまで普段、そんなに意識して周りを見ていなかったんですよね。でも本当は、自分は風景の中で、そして周りの人との関係の中で生きている。そういう自分を取り囲むものと、自分との関係や間にこそ書くことがあるということが、この期間で見えてきたような気がします。まだ3か月ですけどね。


そもそも「書く」こととどうつきあってきたか

おそらく多くの「内向的な人」は、話すことが苦手だと思うんです。思っていることが咄嗟にうまく言えなくて伝わらなかったり、きょとんとされたり。そして、あとでもっとああ言えばよかったと落ち込む。

私もそういう人間なので、普段から書きながら考えることをよくしていました。うまく言える言えない以前に、自分が何を思っているのかが、自分でもよくわからないことが多かったから。

ただ、それはここ数年のことで、小さい頃や若い頃はそこまで積極的にいつも書いていたわけではありません。読書に関しては、それこそ保育園の頃からいろんな記憶が残っているけれど、書くことに関してはほとんど記憶がありません。だからそんなに書いていなかったのだろうと思います。小学生のときの交換日記くらいでしょうか。

それ以外の、日本で教育を受ける中で誰もが書くであろう、作文、読書感想文、国語の論述問題、入試の小論文、に関しては、書けないことはないけれど、苦手だと思いながら取り組んでいました。なぜかというと、「いい点数を取ろうとして力が入る」から。私にとって学校の勉強は「いい成績をとるためのもの」でしかなかったからです。しかも、「よい大学に行くため」以前に、単にクラスメイトたちに負けたくない、勝ちたいというだけの、しょぼい理由でした。だから、自由に書いたり、書きたいことを書いたり、という記憶が、まったくないんです。

大人になってから、どうしようもなくつらいとき、哀しいとき、腹が立ったとき、その感情の持っていき場がなくて、自然にノートに書きだすようになりました。PCを使うようになってからは、それがPCに移っていきました。


「書く」ことに訪れた転機

テクニカルライターの仕事をするようになって、仕事で書くようになった頃、プライベートでもブログを書くようになりました。きっかけは、あるマーケティングの講座を受けにいったとき、文章を書けないと商品やサービスの価値を伝えられないので、受講生全員がブログをスタートするように言われたからです。

そのときは会社員なので、匿名で。今でもそのブログは残していますが、ちょっともうはずかしくて見返せません。ある意味人に見られたくない黒歴史です。なんだかんだいつもうじうじしてるし、とにかく人の目を気にしているし。「盛る」というよりは「張りぼて」すぎて失笑してしまう、というか。

でも、ときどき、ところどころ、むき出しの「なま」の言葉が表れているところもあって、それは今の私からは失われて絶対に手に入らないものだから、大事にしたいなという気持ちもあります。今後、何かを書くときの素材として使えるかもしれないという気も、ちょっとしています。

その後、小さい会社に転職をして、社長の出版する本の執筆をサポートしたり、本をより知ってもらうためのキャンペーンを考えたり、ゼロからイベントを立上げて、その告知から、巻き込みから、WEBサイトづくりから、印刷物づくりからを全部やっていたときにつくづく思ったのが、本当に「何から何まで、言葉で伝えなくてはいけない」のだなあということです。このときに、本当に「書く」ということにぶつかったというか、相当試行錯誤をしました。なので、この頃に「書けない」という気持ちも、強くなっていったように思います。

転機となったのは、その会社で働いているときに、動画制作の依頼をもらったことでした。ヤクルトレディさんのエピソードをテキストムービーにしたのですが、その反響がすごかったのです。わずか4分の動画が、私の次の道を開いてくれました。その動画がきっかけで、今度はヤマト運輸のセールスドライバーさんのエピソードをムービーにする仕事がありました。こちらは10分程ですが、その反響はもっとすごかった。日経の記事にもなりました。

私はこのとき、どちらも1000人くらいの方々の体験談(作文)を読ませてもらったのですが、毎日泣きながら、ティッシュの山を作りながら読んだんです。本当にびっくりしました。ともすれば見過ごされがちな、一人ひとりの日々の仕事の中に、こんなにキラキラした、心が動かされる体験が眠っているんだなあということに、すごく感動したんです。


向き合うなかで育った課題意識

そこから、そのテキストムービー制作の依頼がどんどん舞い込みました。それまでやっていたイベントプロデュースも、出版のサポートもこなせないので手放し、ムービー制作を受託するという形で独立をしました。会社員という立場から、個人事業主として働き始めたのです。

そこからは、細々とでも自分の名前で、とにかく発信をしていくことが重要になってきます。このときも「書けないなあ」という思いをどかっと抱きながらいつも書いていました。目のまえにやってくる流れに乗っていたら、そこに辿り着いたという感じだったので、これが自分の軸です、と人に言えるものが全然明確じゃなかった分、苦しかった時期です。

それでも、おかげさまでたくさんの企業の方々と一緒に、テキストムービーを作るという仕事をさせてもらうことになりました。その経験を通して、新たに見えてきたものがありました。

企業の存在理由である企業理念と、何のために働くのかという個人の価値観が重なることが、その人の働き甲斐ににつながっていること、そして、企業理念が浸透した状態になるということです。そこで、経営理念の浸透のためのプログラムを、事業に追加しました。社会人大学院(MBA)に行き、論文も書き上げました。

そういう、経営とか組織という視点で学んではっきりしたことは、「働く一人ひとりのなかにある、原石のような思いを磨いていくにはどうしたらいいのか?」という問題意識でした。

いろいろな方々に、インタビューやワークショップを通してお話を伺うと、多くの人が、「私の体験なんて・・・」と恐縮したり、「大したことではないんですけど・・・」と前置きをして、お話をされることが多いのです。でも、多くの人の話を聞いたからこそわかるのは、「大したことない人なんて一人もいない」ということです。

これまで、ストーリーテリングワークショップというのを繰り返し行ってきました。そのとき、誰もが、自分の体験をキラキラした目で、少しはにかんだ表情で、遠くを見ながらもしくはじっと自分の内面を感じ取りながら、語ります。ワークショップでは、それを他の誰かに聞いてもらい、ストーリーとして書き起こしてもらいます。自分で自分のことを書くのではなく、自分が聴いた相手の話を書くこと、そして、お互いにそのストーリーをプレゼントするつもりで、朗読するというしかけが、とてもうまく作用してくれていました。

その時間は、その人が日々働いていること、生きていることへの「OKマーク」になるというか、すごく自然な形で承認がなされるんです。そういうかけがえのない時間だったと、自画自賛になりますが、思っています。かといって、わざわざそういう研修やワークショップばかりやるわけにいかない。だから、日常の中でどうにかそれができたらいいのにと思うようになりました。

「すべての人が、自分の人生の主人公」そんな当たり前の、道端に転がっていそうな表現さえ、平気で日々の文脈に埋もれて忘れられていきます。当時私は、「名もなきヒーロー、ヒロインに光をあてる」という、ちょっとかっこつけたことを標榜していたのですが、よくよく考えると、ちゃんと一人ひとり名前がある。人生がある。語るべきストーリーがある。

そこに自分が1つの「働き」や「機能」として、関わっていくには、どうしたらいいか?というのが自分の課題となりました。


「書く」ことから自分が得ているもの

noteでは、これとかこれとか、書けないときのことを自分なりに振りかえって分析していますが、そういう過去の大量の「書けないなあ」を乗り越えて「書けた。書き切った」という、一種の登頂の瞬間の記憶も身体に刻まれています。自分が書くということは、そういう感覚を欲していること、求めていることなんじゃないかという気が、今はしています。

例えば、

パズルの最後のピースがパチッとハマったような感じ。
これでやれることはやりきったから死んでもいいと思う感じ。
自分の理想としている世界がここにあると満たされる感じ。
力を出し切ってもう抜け殻みたいだけど、悔いはないという感じ。
命を生み出せたような深いよろこび。

そういう感覚を味わったときというのは、「生きている実感」がするというよりも、その書いている間は「ちゃんと生きた」という感じがします。「ちゃんと」というのは、命を無駄遣いしなかったというか、自分にとって正しいことをしたような、自分の命を正しく使えたような感じという意味です。

これは、人生観から来ていると思うのですが、「人は果たすべきものを持って生まれてくる」と私はいつからか思っています。だから、「正しく」というのは、その「果たすべきものに沿った」という意味です。このあたりはまだ道半ばなので、大言壮語しているようでちょっと気恥ずかしくなるのでこのへんで。ごにょごにょ。


今取り組んでいる「書く」

まずは、毎日のnote。evernoteに書きかけのものがいくつもあって、それを書き上げてアップするようにしています。書きかけといっても、「あ、これ書けるかも」と思ったときに、だーっと箇条書きで要素を出す程度なので、基本的には毎日せっせと文章を、あーでもない、こーでもないと書いています。書きためることはあまりできていません。あと書きたいなと思うことが浮かんだら、とにかくキーワードだけでもメモしています。以前書いた「レジのマツダさん」は、そんなキーワードから1時間で書いたものです。自分では気に入っている記事です。

それから、毎朝のモーニングページを手書きで、アナログのノートに書いています。A5ノート1ページにびっちり、そのとき思うことをノンストップで書き出しています。ジュリア・キャメロンの『ずっとやりたかったことをやりなさい』という本で推奨されている方法です。本来は30分、3ページを埋める、と書かれているのですが、私はそれだと毎日続かないなと思ったので、10~15分くらいで1ページを埋めています。

これが「脳の排水」になると著者は言っていますが、どうでもいい言葉にまざって、飾らない素直な表現とか、ストレートな気持ちが出ることもあって、今は読み返していないけれど、そのうち読み返すと使えそうな表現が埋もれているんじゃないかなあという気がしています。

その他には、好きな作家の本を書き写しています。今は志賀直哉の短編を、わざわざ原稿用紙に書いてます。写経のようなものですね。心がざわざわしたときにやると、すーっと落ち着きます。そして、作家の文章のリズムがよくわかります。手を動かして書いているので、語り手の気持ちが入ってきて、唸ってしまうことも多いです。

他にも、多くの作家のエッセイの本を参考に読むようにしています。そして、読み終わったらその中から何編か、丸々PCで打ち込むということをやっています。これは原稿用紙ではなく、普通に横書きでだーっと打ち込んでいく感じです。これも、その著者ならではの呼吸というか、句読点やリズムなどを、頭ではなく身体でわかりたいなあと思ってやっています。

以前、フィクションを書いていたときは、フィクションも丸々入力していました。向田邦子さん、桜木紫乃さん、あとはスクールに通っていたときの先生の戯曲、ドラマシナリオ、ラジオドラマのシナリオなども。

向田邦子さんは人物の描き出し方がすごいんです。何気ないセリフや行動で、その人物を深く伝えてしまう。バーチャルリアリティのようにありありと浮かんできそうなほどです。

桜木紫乃さんは、おそらく私が書きたい文章は、こういうトーンとか色合いになるんじゃないかと直感で感じて、何冊も本を読んだ作家さんです。鈍いグレーで、ずんと重くて、出口が細くて、たまに陽が射す、みたいな世界観の作品が多い。だけどそこにポツンと咲いている花のような、人間の尊厳みたいなものが描かれているような気がしています。桜木さんの作品の中で一番感銘を受けた『砂上』という長編は、全部入力しました。12万字くらい。

さらに、入力した後に、1つひとつの文を、色をつけて分析していきました。どういうことが書かれているのか、と。

・出来事・行動(今の出来事、行動。話が展開するもの) 
・場所・人物の描写(今、視点人物から見えるもの、聞こえるもの)
・思考・心情(今、視点人物が感じたこと、考えたこと、思い出したこと)
・説明・補足(その他の説明、今起こっていないこと、どれにも分類できないもの)
・「セリフ」(上記いろいろを含む)

これは、なかなか時間がかかるのでまだ少ししかできていませんが、いろいろな作家さんの作品でやりたいなと思っています。

読んでいる本は、そのときどきで変わるのですが、いつも10冊以上並行しています。だからいつも読みかけが多いです。
今は毎日、エッセイを数冊並行して読みつつ、吉本隆明さんの本、言語学の本を読んでいます。その他、古事記やギリシア神話などの本、横光利一や中上健次等の文学作品も、読んでいます。

書きかけ、読みかけが多い理由は、少しでも仕掛かると続きが気になるというツァイガルニク効果を狙っているのですが、今のところまだそんな効果は発揮されていません(笑)。


これから向かっていきたい方向

『フリーダム・ライターズ』という、実話をもとにした映画があります。

ロス暴動直後の高校に赴任したヒラリー・スワンク演じる新任教師のミスGことエリンは、人種による対立がはびこる生徒たちの様子をまざまざと見せつけられ、どうにか彼らの将来を光あるものにしたいという信念に基づいて、決してあきらめることなく行動していきます。

その中の1つが、自費で購入したノートを生徒に配り、毎日日記をつけるようにと伝えること。何を書いてもいい、ただし、毎日書くこと、と。

生徒たちから提出されたノートに書かれていたのは、壮絶な現状でした。身近に暴力と死が蔓延する日々を送っている彼らの叫びのような言葉が、そこには書かれていました。

でも彼らは、ミスGの授業と日記を書くことを通して、自分と向き合っていきます。現状を環境のせいするのではなく、自分が変わると決める。そのとき、ノートが、彼らにとっての「命綱」になっていたのではないかと思います。

「君たちには無理だという声を消して。どうせ社会は変わらないと思わないで」とミスGは伝えます。その結果、彼らは徐々に意識を変え、対立ばかりだったクラスメイトたちは家族のような仲間になっていきます。

最後、ミスGは、彼らのノートを本にするプロジェクトを彼らに委ねます。

「私たちは、自分の声を持ったライターになった。
本は私たちが生きた証になる。
これで皆が自尊心を持てた。
たとえ自己満足でもこの勇気は忘れない」

そんな生徒のセリフで、映画は終わりを迎えます。

最初は生徒の気持ちに共感して映画を見ていたのですが、最近は先生の側の気持ちで見るようになっていました。

今後、そんな「命綱」を持つ人になりたい、と思っています。それは書くことを教える、ということではなくて、誰かの「書く」を見守る読者であり続ける、ということです。

まだまだ企画中ですが、近々「〇〇〇 Writers Labo.」とか、「書く人の実験室」みたいな、研究会かサークルのようなものを始めます。「書く」ことは、そもそも個人の作業です。だから、それぞれが個人でいろんな「書く」に挑戦して、その状態でつながっていく。そうやって共に書いていく、そんな活動をしたいと思っています。

そのためにはもっと「読める人」になりたい。言い換えると、誰かの書いた言葉も、書いたその人も、まるっと受け止めて、ちゃんとその人の声を聴ける人になりたいということです。その人がそれを書かずにはいられなかった、書きたかった気持ちに耳を澄ませ、何気なく書いたとしてもそこに表れているその人を見つめて、それをちゃんと「いいね」とか「♡」と思える自分でありたいのです。

理想のあり方は、『フリーダム・ライターズ』の教師のエリンであり、もう一人は、ミヒャエル・エンデの『モモ』のモモ。モモのきき方についてや、自分自身のパーソナルクレドを以前書きましたが、モモのようなあり方で、誰かの書いたものを読むこと、が私の目指していることです。できているか、できるかどうか、は別として、そうありたいと思っています。


自分が書いていきたいこと

そのためにも、「書く」ことの悲喜こもごもを、じゅうぶんに体験して、痛いほどわかっていたいと思います。だからこれからも、書き続けていきたい。

これから書きたいことは、作品の形態は別として、はかない記憶を、匂いや手触りが思い出せるくらいにまで瑞々しく描写して書き表したり、見過ごされている人の尊さのようなものを描きだしたり、苦しみを描くことでそれを昇華させたり、そういうことに取り組みたいという気持ちがあります。

なかなか読み終わらないのですが、『言語にとって美とは何か』という本で、吉本隆明氏は、言葉を「指示表出」と「自己表出」という基軸で分類しています。

「指示表出」は、名詞や動詞のように何かを指すような、他人に伝える必要があって使う言葉で、五感の動きと関係が深い。

「自己表出」は、「ああ…」や「てにをは」のように、他人に伝わることよりも「自己が自己にもたらす」ような言葉で、内臓感覚と関係が深い。

「指示表出」が文章の横糸、「自己表出」が文章の縦糸となり、語りや文章が織られている、ということを提唱しています。

最初はなかなか意味がわからなかったものの、今はすごくしっくり”腹に落ちて”います(まさに内臓感覚)。どちらがいいとかそういうことではなく、そんな「内臓感覚」を表していきたいということを、最近は思っています。はらわたを引っ張り上げて、口からだらーんと下げて、人前にさらすようなこと(笑)を書いてみたいですね。

もともと「書く」ことって、ある一時点の、思考や感情や感覚を結晶化させるものでもあって、ある意味、排泄物みたいな面もある気がするんです。

でも、書くことはまた、過去の意味を変えたり、新たな未来を引き寄せたりと、人生の文脈を編集したり創造していく力も持っている。私はそこにものすごく、希望や力を感じています。

そんなようなこと、何年も前から思ったり言ったりしてたんだけど、なかなか自分にGOサインが出せませんでした。アクセルを踏むよりも強い力でブレーキを踏んでいました。今回の外出自粛期間が、そのことをじっくり考える時間を与えてくれました。


最後に

昨日書いたように、今週末に「書く」をめぐるインタビューをやってもらえることになって、その準備の意味でも、今思うことをダーッと書き出してみました。たぶん普通にインタビューをしてもらったら、ここに書いたようなことを語るのだろうと思います。

でも、ここに書いたことはこうして自分で書けること。そのもっと奥にある、まだ言葉になっていない、まさに「内臓感覚」を引っ張り上げたいという、がめつい(笑)欲求が顔を出しています。

毎度下手な図で恐縮なのですが、この絵のように、奥の奥の方の「本当に話したいこと」を汲み上げたい。

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書くことを思うとき、何を考え、何を感じるか。
書いているそばから、あれもこれも、と湧いてきますが、ひとまずここまでで、今日の暫定版とします。ちょっとの間、これを自己紹介にしておきます。

今後さらに自分や他者との対話を重ねながら、活動の土台となる「理念」を掘り出せたらと願っています。今日こうして書いているレベルよりも深く、ガツンと何かにあたるまで掘り進んでいけたらと思いながら、今日も「。」を打ちます。


ここまで9,000字。もしも長々と読んでくださったとしたら、本当にありがとうございます。もしスキの足跡を残していただけたら、私もあなたの文章を読みにお邪魔させていただきます。そんな出会いも、期待して。

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