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「書く」をめぐるインタビュー⑧~「目の前にあることをすみずみまで楽しむという、真ん中を大切にする生き方を」

「書く」をめぐるインタビューセッションを実施した。今回、お話を聞かせてくれたのは、会社で働きながら、カレーのキッチンカー個人ブログ本の解説をするyoutubeのチャンネルを運営する大野晃義さん。ひょんなきっかけでセッションのことを知り、一度体験してみようと申し込んでくださった。

インタビューを終えて

お話を伺っているなかで、大野さんが語る言葉が、自分のことを言っているんじゃないかと思うことが幾度となくあった。

例えば、私はあまりにもせっかちで、推理小説の終わりを読んでから(結末を知ってから)途中を読むという読み方をしていたこともあるのだが、大野さんの結論を急いでしまうという話や、目的を急ぎ過ぎるあまり過程を楽しめないという話に、「そうそう、たしかに!」と共感しきりだった。

だが、そういう共感だけでなく、もうちょっと何か奥の方の、探しているものの共通性というか、向いている方向の共通性というか、そういう何かはっきりとはしていないけれど、でも何かが同じだなあという感じがした。

おそらく、書き続けることの迷いとか、自問自答し続けることの不確かさとか、そういう部分が反応したのかもしれない。そういう部分で、つながっていると感じたのかもしれない。

この日が初めましてだったが、とても自然体でお話をしてくださって、大野さんが自分の言葉を探しながら歩いている散歩道を、一緒に歩いて楽しませてもらったような時間となった。

セッション内容のリライト

ご本人の許可を得て、セッションで伺ったお話のメモをリライトしたものを掲載する。このリライトは「記事」ではなく、ご本人に「セッションを振り返ってもらうためのもの」なので、話したままに近い内容になっている。

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5~6年前に個人でブログを始めたきっかけは、自分のことをわかってもらうため、自分のことを表現するためだった。だから書くということは、自分の頭にある意識や意思を他人に伝えるためにあると思っていた。

ふりかえってみると、他人に自分のことをわかってほしいという気持ちが強かった。「自分がここにいるんだ」「自分はこういうことを考えているんだ」ということをわかってほしい、承認してほしいという気持ち。だから、自分が書くものすべてが他人の目にふれないと意味がないし、自分のためだけに書くということは、もったいないし、書く意味がないと思っていた。

それが今、少しずつ、自分の中で変わってきている。最近、モーニングノートを書き始めた。中田あっちゃんがyoutubeで本の紹介をしているときにモーニングノートについて話していて、A4のノートを買って書き始めた。今までの僕からすると、モーニングノートのルールにある「他人に見せない」で書くというのは初めてのことで、他人にあわせた文章ではなく、自分の中の、誰の目も気にしない文章が出てくるのがいいなと思ってやり始めた。

自分のためだけの文章は無価値、意味がないと思っていたのが、自分のためだけに書くことの気持ち良さ、他人の目を気にせずに書くことの気持よさを感じている。相手がどう思うかを考えずに書くというのは、いいことだなって思っている。

3年前に離婚をして、3人子どもがいたけど家を出て、それ以来子どもたちとは会っていなくて、手紙を書くということすら、あまりできていなかった。なかなか、何を書けばいいかわからなくて書かずにいた。それが、9月23日が長男の誕生日で、そのタイミングで前の妻と子ども3人に手紙を書くということができて、それが、何でできたのかはわからないけど、気軽に書くということができた。


ブログの場合、投稿画面に向かって書き始めると、何度も何度も一行書いてはとまり、直し、また次の一行書いてはとまりということをずっとやっていて、丸1日そうやっていても書けないこともあったり、何時間ももんもんとしながらも書けなくて苦しいこともあった。

最近は気軽に書くというか、何か意味とか価値を求めるというよりは、「ただ書く」ということがなんとなくでき始めているという気がしている。それがいいことかはわからないけど、「ただ書く」ということができている気がして、それが気持ちいいなと感じている。

気持ち良さというのは、全部出ちゃうというか、頭の中にあったもやもやしているものがなくなるという爽快感、すっきりする感じがある。書いたあとはまたいろいろ考えてもやもやしたりはするけど、「すっきりした感」が一瞬でもあるというのが気持ちいい。

「この文章はわかりやすいだろうか?」「相手がどう思うか?」という風に、いつも「読まれるかどうか」がすごい気になっていて、「自分という人間が受け入れられるのか」を考えすぎてしまう。だから、外向きの文章に関しては、とりつくろっているというか、嘘の自分とまではいわないけど、無理をしている自分が出ているのかもしれない。だから苦しいのかもしれない。

最初にブログを始めたときの、文章を書くと言うことに対する意味や意義というのはあながちまちがっていないというか、自分のことを表現するために、わかってもらうために書くという最初の気持ちは、まちがってないし、いいなと今でも思っているけど、でも人に向けて書くことや、顔の知らない多くの人に向かって書くという行為が、最初に思っていたことをできなくなってしまっている、という感じになっていた。

人に見せる必要はない、と思って書く方が、自分にとっては気持ちいいと思うけど、でも書くことを仕事にしたいというか、書くというスキルを使って人の役に立ちたいという気持ちもある。自分の経験や知識が、もしかしたら必要としている人に届けられることができれば、誰かの役に立ったり、勇気につながったりすることもあるかもしれないと思っている。

今思ったのは、そういう葛藤があるなということ。誰にも見せないで書くことが気持ちいいなと思う半面、誰かに届けたいという感じもある。

今、youtubeでアニメーションを使って、本を要約して公開するチャンネルをやっていて、そこではナレーションとアニメーションをつけているので、前段階の台本を作るところでライティングをしている。時間はかかるけど、でも苦しさはそんなにない。

だけど、自分の経験だけを使って文章をまとめていくというか、他人に伝わるように整えていくという作業は、感覚的に少し苦しいイメージがある。人が経験したことを自分の視点で編集してまとめていくということは、同じくらい時間はかかるけど、そこまで苦しさを感じていない気がする。

自分で書いたブログがたくさんの人に読まれたときのうれしさ、報酬体験があるから、また書きたい、またやりたいとなって、ここまで続けてきたのかなと思う。ブログに書いたことがツイッターでシェアされて、たくさんの人に読まれたときはうれしくて、そうすると単純なもので、これを仕事にしたいとか、書くことで食っていきたいと思ったりもする。

でも、それを仕事にするということにはそれなりの苦労というか大変さもある。今会社で、お客さんに会社のことを知ってもらうための記事を書く仕事をしていて、仕事で書こうとすると会社の色とか方針とか社内にいる人たちの考えとか価値観とか、いろんな縛りやルールがあって、それにすべてマッチした文章を書いた上で、目的を達成することのレベルの高さに参ることもある。そうすると、仕事にしたいという思いみたいなのを、あきらめたくなる言い訳が出てきたりもする。

ふと思ったのは、自分はいつも結論を早く出そうとし過ぎるというか、話していても「だから書くことを仕事にしないほうがいいんだ」と結論を急ごうとする自分がいて、これはなんなんだろう? それは本当にのぞんでいることではないかもしれないのに、そう結論づけたくなる。

関係あるかわからないけど、昨日、近くの古本屋さんに行ったときに絵本がいっぱいあって、気になった絵本を手にとって読んでいたら、お店のオーナーさんが絵本好きな人で、子どもの頃に読んでいた大好きな絵本を2冊くらい紹介してくれた。

「ぼくのはね」という絵本で、リスが鳥の羽根を集めて袋にしまって枕にして寝ていたら、あるときお母さんに羽根をお日様にあてて干しなさいと言われて、外に出していた。それが遊びに行って帰ってきたらなくなっていて、お母さんにきいたら、連れていかれたところに、鳥の巣があって、卵をあたためるために羽根を使って巣をつくっていた。リスは泣く泣く羽根を鳥にあげて、という話だった。

「いい話ですね」とオーナーに言ったら、「羽根がなくなっていたときのリスの顔最高じゃないですか?」と言われて。さらに「羽根を全部持っていかれて、でも鳥さんが卵を産むために使うならしかたないと思って、ブランコにのってしょんぼりしているリスの顔も最高じゃないですか?」とまた言われたときに衝撃を受けた。

自分はまったくその絵が記憶になくて、絵本なのに文章ばっかり追っていて絵を見ていなかったのかと。さらにびっくりしたのが、オーナーさんは、リスが羽根を拡げている絵を見て、本当に70何枚あるかどうか数えたと言っていて。それが衝撃で、なんでそんなにゆったりしているんだろうと思った。自分はどうしても、物語を先に先に知りたいし、意味ばかり知ろうとする、結論を早く知ろうとする傾向がある。

そういう自分と、絵本をすみずみまで楽しむというオーナーさんとの違いに衝撃をうけた。ギャップというか、差があることを悪いとは思わないけど、楽しみ方は人それぞれと思いつつも、絵本なのに絵を見ていないのはなんなんだろう、もっとゆったりしてもいいんじゃないか、もっと細部まで楽しんで、深く深く意味を探究する、そういう生き方っていいなって思った。

最近、「ひとつひとつ丁寧にやろう」ということを自分に言い聞かせようとしているんだけど、でも「丁寧にやる」ということの意味がわかっていなかったなと。ただ「丁寧にやろう」という言葉を使っていただけで、その言葉の本質的な意味というか、やりかたというか、そういうのをまったく理解せずに口が動いていただけだなと今わかった。

たぶん、ただ目の前にあることを、すみずみまで楽しむというか、すみずみまで感じるというか。人の作品に対しても、その人が表現していることをすみずみまで見てみるとか、すみずみまで感じようとかそういうことなんじゃないかなと。それはただゆっくりやるだけということじゃなくて。

会社の仕事でも急いでやらなきゃいけないことが出てきたりして、結果を出すスピードが遅いとドキドキしたり、ヘンな緊張をするというか、そうすればするほど、周りが見えなくなって空回りするなと思っている。だから、古本屋のオーナーのような人にあこがれる、惹かれるというところがあるなあと。

「丁寧に」というのは、結論をいそがないというか。これまで真ん中を飛ばそうとしていたけど、その真ん中が重要なんじゃないかなという感じがしてきている。

自分は、行動し始めると言うことに関してはフットワークが軽いけど、行動してその後の目的にしか目がいかないのは、自分が早く気持ちよくなりたいからなのかなあ。だから、そのプロセスの部分というか、真ん中の部分をすっとばしてすぐに目に見える結果を得ようとするクセがある。

書くときにもそれがたぶん出ちゃって、書くということの目的を置くと、大切な部分の真ん中、もっとなんだろう、例えば無意識の世界のことを書こうとか、「嫌われる勇気」という本をまとめようと思ったときに、もっとその中身をよく知って、この本が伝えたいことは何なのかということを、時間をかけてより深く知る方がいいはずで、結果的にそこから出てきたものをまとめればいいと思うのだけど、

youtubeに公開するとか、ブログに公開するとかという目的がまずあって、それありきで行動を始めるから、真ん中が楽しくなくなっちゃう。もうちょっと自分の中で、熟成されるのを待つ勇気も必要だなと思った。

最近、キャンプとか焚火とかに興味があって、でもキャンプとか焚火を楽しむ前にそれをコンテンツにできないかと思ってしまう。そうするともう真ん中がない。なんでいったんやろうとしないのか、ただ純粋にその行為を楽しもうとしないのか。

カレーのキッチンカーを副業でやっていて、そのときも、カレーっていいな、おいしいしと、ちょっと自分で料理をやっただけで売ってみようかという感じになって、行動はすぐなんだけど、でも楽しんでいるかというと、1/100とか1/1000くらいしか楽しんでいない。すぐ「これをやる意味は?」ってなっちゃう。ずっとそうだったのかな……。

新しい本を読むときもそういう思考になっちゃって、深く読めないからまとめられない苦しさは経験している。だから、要約しているのは今まで読んだことがある本をチョイスしている。新しい本を読むときはそうなっちゃってる。

ただ変化もあって、毎朝、散歩をしていて歩き方が変わってきた。以前は歩いて戻ってくるのが目的だったけど、最近は、鳥の声が聞こえるかなとか、途中の雑草が刈られているなとか、もうちょっと過程に目を向け始めた。そんな変化を感じている。

「13歳からのアート思考」という本の中で、美術館に行って、絵の前にある説明書きばかりを読む人が多いという一節があって、絵を全然楽しまないで、わかった気になっていることが自分もあるなと。自分が純粋に思ったことや、自分ならではの解釈を大事にしていない。自然の中に入って写真ばかりとっていたり、運動会で子どもの写真ばっかりをとっているのと一緒で、目の前の世界から自分が何を感じるかが少しないがしろになっている気がしている。

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いただいた感想

今回、大野さんはセッション時に私が記録したメモをもとに、ご自身の話した内容を再編集して、ブログで公開されている。

「書く」というテーマを飛び越えて自分自身のいまの課題に気づくに至った、不思議なセッションだった。

大前さんのインタビューを受けたら、いままで見えていなかった「自分」が言葉となって目の前に現れた。

モーニングノートのような人だ。

というコメントをいただきました。ありがとうございます。


あらためて「書く」をめぐるインタビューについて思うこと

今回のセッションを終えて改めて思ったのは、このインタビューセッションは「真ん中」を大切にしているということだ。セッションの「結果」、何かがはっきりすることやすっきりすることというよりも、セッションの「過程」で感じること、味わうことそのものを、両手で包むように大事に思っている。

だからこそ、なるべくその人の語った言葉のままに近い形でリライトをして、大きな編集をほどこさない形でいつも共有をしている。過程のてざわりが、そこに残るようにと。それは、お話をされた方のためでもあると考えているし、何より私自身のためだ。

「書く」ことは、結果がすべてと思われやすい。書かれたものがすべてだとよく言われる。そのことに別に異論はない。特にプロの世界はそうだろう。

けれども、1人ひとりが書くときに、その人の中で起こることもまた、この世界の真実だ。書く過程で人は自分や人生や世界に、まっすぐに向き合っていこうとする。だからこそ、「書く」について話してくれるプロセス全部を大事にしたいと思いながらいつもお話を聴いている。

誰かの「書く」を大切にすることは、誰かの「生きる」を大切にすることだ。それはそのまま、自分の「書く」も「生きる」も、大切にすることになる。あらためてそんなことを感じた。


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