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ゆめ

 この前見た夢と同じ夢を見た。見覚えのある景色を脳はこれでもかというくらい鮮明に覚えていた。いつ見たのかは覚えていない。けれど、ストーリが、完全に一致していた。怖くなって私は近くに置いてあったスマートフォンを開き、すぐさまラジオを聞いた。いつも聞いているラジオから流れる声。それに安心してまたひと眠りした。

 さて、このところ私は読書をしたり、映画を観ることからどんどん遠ざかり、気付けば私の体から言葉がひらひらと離れていくのを感じていた。必要最低限度の言葉で埋め尽くされたこの体はなんだか味気がなく、どことなく物足りなさを感じている。例えば、誰かと会話をしているとき。「この前こういうことがあって、こう思ったんだよね…」と一言述べても次に思い浮かぶ言葉が出てこない。嬉しかったのか、悲しかったのかくらいのことは伝えられるとしても平たい形容詞を並べるだけでは相手の胸にはきっと届かない。会話の醍醐味は言葉そのものにあると思うからだ。

 そんな中、よしもとばななさんの『キッチン』を手に取り、何ページか読み進めているうちにはっとした。「これこれ、この感覚。そう、この生ぬるい感覚でさえも手にすくって言葉にすること。これだ、これが欲しかった」と。例えばよしもとばななさんは、主人公が悲しみの中にいるときの感情っを「冷蔵庫のぶーんという音が、私を孤独な思考から守った。」と表現する。多くの人が思っていても実際には言葉にしない部分をスポットライトを当て、言葉にしていく。これこそが、小説を読むときになんだか嬉しくなることの一つなのだ。

 日常生活でも、馴染みすぎていて、目を凝らさなければ見つけられないものや、何度も自分の前を通り過ぎても掴めないもので溢れている。それらを時々上手くキャッチできたとき、自分なりの言葉で伝えられたらどんなに喜ばしいだろうかと思う。

 大学生の時、ゼミで1年間同じ小説を読み続けたとき、誰かが言い放った解釈をみんなでなぞり、何度も「その解釈はどうなのか」と探った。作者にしか分からないこと、ひいては私たちに与えらえたメッセージを丁寧に読む行為そのものがなんだか愛おしかった。

 今、そういった機会はないが、自分が手に取った小説で実践することはいくらでもできる。少し、肩の力を抜いている今、またテキストに向き合ってみたい。きっと、知らなかった人、そして自分に出会えるはずだから。


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