宝塚のいじめは殺人罪に問われるべき事例である
世の中のいじめと言われる問題は全て殺人罪として取り扱うべきだと感じます。「いじめ」という表現はあまりにも軽々しく聞こえるもので、加害者側にとっては、反省をすれば許されるだろう程度だと思います。まぁ反省するかどうかもわかりませんが・・・。
いじめ問題の闇は次々と暴かれるだろう
学校や職場で起きるいじめ問題は、必ず集団組織下で起きるものです。これは当たり前のように思うかもしれませんが、私の経験上、個人対個人(1:1)では基本的に人はそこまで極悪人にはなれません。それはなぜだと思いますか?集団でいる時と一人でいる時とでは、精神状態が大きく異なるからです。昭和も平成もとっくに終わりを迎えました。これからの時代、もっと一人一人が自立しなければなりません。
これは日本人ならではと言ってもいいでしょう。協調性がプラスに働くこともあれば、マイナスに働くことも多いのが日本文化の長所と短所です。愛のある優しい人がトップに立てば、その人に協調してみんなも同じような考え方に染まっていきます。しかし、エゴの塊で悪魔のような人がトップに立った時、下の人間はいとも簡単に心が動揺し流されてしまうのです。
私自身は常に相手の本質を見るようにしています。本質というのは、本来の姿のことです。世の中には、表面上は正しいことを言っていても、いざ困った時に手を差し伸べてくれない人もいます。また、積極的に声をかけてくれる人がいても、実は粗探しをしているだけで噂話のネタを作ろうとする人もいます。
いじめ被害者を減らす唯一無二の方法
いじめ被害者を減らすためには、いじめを「殺人罪」に変えることだと感じます。世の中の法律は、全て目に見える形でしか判断されません。しかし、人間の本質は心です。目には見えない『心』でこの人生を生きているのです。その大切な心を切り刻んでおきながら、反省すれば許されるような軽々しい「いじめ」という言葉で片づけることに大きな問題があるのです。
宝塚で殺人罪を犯した人間は、必ず処罰されなければならないというのが個人的な意見です。それは、主犯格に流されて日本人の協調性が裏目に出てしまった人も含めて、犯罪を犯したことを自覚させる必要があります。そういった事例を作らなければ、学校や職場でも心をズタボロにされる人が後を絶ちません。加害者が、いくら「反省します」「もうやりません」と表面上の言葉を発したところで、ちゃんとした罰を下さない限り、また同じことを繰り返すことになるでしょう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?