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3月26日(日):居場所をつくる主観と客観による承認

この1週間ほどは政府が進めようとしている学校や家庭以外の子どもにとっての「第三の居場所」づくりに向けたモデル事業に端を発して、コモンのことやコミュニティに触れてきました。

それに付随して一昨日からは書籍「孤独と居場所の社会学(阿比留久美著)」を引き合いに「居場所」についての掘り下げをしています。

居場所とは個人のアイディンティティの承認、実存を巡る問題であるし、それを踏まえて昨日は居場所を定義、整理するための3つの観点を取り上げました。

居場所について捉えるべき観点が整理されると、改めて考えるべき点が出てくるし、取り組んでいくべき方向性も見えてくる気がします。

3つの観点の説明は昨日の内容を参照してもらうとして、以下はそれぞれに対して私なりに感じたことです。

①「主観/客観的承認」

居場所の有無には主観的な承認と客観的な承認によって生じる点は昨日に記した通りです。

まず主観として自分自身が、ある場所に対してそこに安心感をおぼえる、自分のいるべき場所だと感じられるのであれば、それがどんな場所であってもその人にとっての居場所になりえる点は理解ができます。

これに対して客観的な承認があったとしても、主観がそれに対して「NO」だと感じていたら、そこが当人にとっての居場所になるのは難しい気がしますね。

客観的承認として第三者が客観的にそこにいることや、属しているメンバーシップを承認してくれる場には学校や部活などが例に挙げられるものの、そのなかに属する個人で自分の居場所が感じられていない人もいますからね。

設定された環境、枠組み、周囲がそこに属する個々を承認していくのももちろん大事ですが、それと主観を一致させていくことが大きなポイントだと思います。

前掲の書籍でも問題提起がなされていましたが、政策課題として行われる居場所づくりは「当事者が、その場所を居場所として感じ、認識する」居場所を実現しようとするものではなく、「居場所がない人に対して、居場所という手段を提供することを通じて、様々な目標を達成させようとする」ことにもつながりかねない点に言及していました。

孤立を和らげるようなコミュニティを多面的、重層的に設けて張り巡らせながらも、そこに押し込んでお仕着せの安心感を与えるようであってはいけないということでしょう。

最終的には個人の主観による承認であるし、個人の背景や感じ方は千差万別だから、多様な場を設ける環境設定のアプローチがひとつです。

また別な面では個人の側が他者と適切に向き合ったり、必要以上に他者と自分を比べないなど、自分を承認できるように自身の内面を養っていく自己修養のアプローチがもうひとつです。

これら外的、内的の双方が伴ってこそ居場所をめぐる問題が前へ進む余地も広がっていくんじゃないかと感じた次第です。

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