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大抵のことはすでに書かれている


2023年6月19日(月)朝の6:00になりました。

いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。

どうも、高倉大希です。




大抵のことは、すでに書かれている。

いろいろな本を読むたびに、思います。


すこし難解な元ネタを、噛み砕いてわかりやすくしただけだったり。

現代ならではの具体例に紐づけて、論を展開しているだけだったり。


感情も、考え方も、ノウハウも。

大抵のことは、すでに書かれているのです。


たとえば『源氏物語』のなかに描かれている、人が人に対して抱くさまざまな感情。それはいまの人たちが抱える悩みや情熱とまったく同じものだと思います。好きだという気持ちを伝える手段は、手紙からメールやLINEに変わってるかもしれないけれど、どうしようもなく人を突き動かす感情みたいなものは、『源氏物語』に書いてあることとなにも変わらない。

糸井重里(2014)「インターネット的」PHP研究所


中高生のころはほかの生徒たちとおなじように、「古典を学ぶ意味がわからない」と、ブーブー文句を言っていたような気がします。

いまになって、わかります。

古典に、ほとんどすべてのことが書かれています。


それにも関わらず、わたしたちはおなじ階段を、自力で駆けあがろうとします。

先人たちが、ちゃんと書き残してくれているにも関わらず。

一段目から、律儀にのぼろうとするのです。


読み手でかまわないなら、読み手でいよう。どこかで読んだ内容を苦労して文章にしてもだれも読まないし、自分も楽しくない。

田中泰延「読みたいことを、書けばいい。」ダイヤモンド社


あなたは「世紀の大発見」だと思っているかもしれませんが、その感動は先人がとっくに味わっています。

すでに書いてくれていることを、自分で発見したと思い込んでいるだけです。

「コストを割く必要がなかったところにコストを割いてしまった」と、自白しているようなものです。


先人が階段を三段目までのぼってくれたのなら、わたしたちは四段目から出発すればよいわけです。

なにもズルくはありません。

ズルいどころか、それでようやく、先人の努力が報われます。


「四十にして惑わず」というのは、四十になったら惑わなくなるということじゃないんです。四十になったら、惑うのは年のせいじゃないことがわかるということなんですよ。

糸井重里、邱永漢(2011)「お金をちゃんと考えることから逃げまわっていたぼくらへ」PHP研究所


巨人の肩に乗れ。

つづきからはじめましょう。






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