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よりはやい経路がみつかりました


2023年3月21日(火)朝の6:00になりました。

曲がりくねった道の先で会いましょう。

どうも、高倉大希です。




お散歩コース、ハイキングコース、アドベンチャーコース。

どのコースを選んだとしても、山頂にはたどり着きます。


もちろん、体力に自信がないのなら、お散歩コースをおすすめします。

しかし、お散歩コースは昨日の雨でぬかるんでいるため、歩くことが困難です。

ゆえに、ハイキングコースを登った方が、体力をつかわずに済むかもしれません。


一方、アスレチックを楽しみたいのなら、アドベンチャーコースがおすすめです。

しかし、人が多い日は行列ができるため、時間がかかる場合があります。

ゆえに、ハイキングコースを登った方が、はやく登頂できるかもしれません。


多くの人が失敗するのは、それに執着しているというだけの理由で、なんとかしてそれを成功させようとまず決め込んでかかるからじゃないだろうか。

安宅和人(2018)「イシューよりはじめよ」英治出版


わたしたちは、ひとつのコースを選んだ時点で、そのコースをなんとしてでも突き進みたくなってしまいます。

どれだけ非効率だと気づいても、途中で道を変えてしまうと、はじめの選択が間違っていたという事実を認めなければならなくなるからです。

だから手段に執着し、最終的にはその道を進むことが目的になってしまいます。


極端な話、山頂にたどり着くのであれば、コースなんてなんだってかまいません。

ぬかるんでいて歩きづらいのなら、行列で時間がかかるのなら、べつのコースを選んで進めばよいだけの話です。


「目的と手段の混同」は、特に「手段として行われている活動」そのものに「価値がある」と思われているときに起こりがちですが、「教育」というのはまさにその典型でしょう。

岡本薫(2001)『教育論議を「かみ合わせる」ための35のカギ』明治図書


学校の授業でも、この現象がよく起こります。

想定したルートどおりに進もうとしすぎて、目の前の子どもたちを置いてけぼりにしてしまいます。


先生「2 × 3 = 6 ということは….2を3回…?」

子ども「2を3回…合わせている!」

先生「合わせていることを、算数のことばで言うと…?」

子ども「えっと…」

先生「算数のことばで言うと、た…たし…」

子ども「たし算!」

先生「そうだね!2 × 3 = 6 ということは、2を3回たし算しているんだね!」


ここで子どもたちに気づかせたかったことは、かけ算とたし算の関係性です。

ゆえに「合わせている!」という発言があった時点で、その目的は達成されています。


しかし、この例における先生は「たし算というフレーズを出させること」を、目的に置いてしまっています。

本来「たし算というフレーズを出させること」は、「かけ算とたし算の関係性に気づかせること」の手段でしかありません。

たし算というフレーズが出なかったとしても、子どもたちがかけ算とたし算の関係性に気づけたのなら、その時点で山頂にはたどり着いているのです。


勘違いしてはいけないのは、「学校に来る」こと自体は、社会の中でよりよく生きていけるようにするための一つの「手段」に過ぎないということです。

工藤勇一(2018)「学校の「当たり前」をやめた。」時事通信社


山頂はひとつですが、登山ルートはひとつではありません。

ひとつのルートに執着してしまった時点で、山頂の景色は遠ざかります。





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