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初稿の連載小説「もっと遠くへ」3-1

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上京

東京の経済学部のある大学に進学しました。

あの日以来、父はちっとも口を聞いてくれなくなりました。荒れることもなく、大人しいという印象さえありました。僕はそんな父から逃げるように東京に出てきたのです。

京王線の聖蹟桜ヶ丘という駅で部屋を借りましたが、その部屋が、築年数五十年を超えた、ボロアパートで、大変苦労しました。風呂の温度調節も一苦労で、排水溝からは下水の匂いがあがってくることも珍しくありませんでした。

一階の角部屋で日当たりは悪く、洗濯機は玄関の横(通路にむき出し)で設置され、夜に帰ってくると、隣人の仕業なのか、洗濯機の上に、空き缶や、煙草の吸殻、ひどい時には、壊れた扇風機や、炊飯器などが置かれていることもありました。もちろん、そのほとんどが使えない物でしたので、黙って処分する以外ありません。エアコンは一応、ありましたが、型が古いものでしたので、本当に稼働しているのか些か疑問でした。

夏場には、温度を二十四度に下げ、それでも耐えられず、二十度まで下げるのですが、ただ、うなりを上げるだけで、それが、やる気に満ちた声なのか、とうに限界を迎えたことへの悲鳴なのか、わかりませんでした。

何より、苦労したのが、騒音です。夜に寝ていても、隣の人間が帰ってくれば、玄関を開ける音で分かりましたし、部屋の足音まで聞こえましたので、椅子に腰を下ろしたな、これから風呂に入るな、冷蔵庫を開けて、麦酒を取り出したな、卑猥な映像を見ているな、などと頭の中で彼の動きを想像することさえ出来ました。

隣人が女を連れて帰ってきたときは、その想像が困難でした。至る所に身体をぶつけながら部屋に入り、その度に「どん」と地鳴りがして、ボロアパート全体が大きく歪むんですが、かと思えば突然静寂が訪れて、無音の時ほど、僕の想像は駆り立てられ、より敏感になるもので、わずかな粘着音と甘い溜息さえ、聞き逃すことはなかったのです。

夏休みに入っても学校での友達と呼べる人間はまだいませんでした。サークル活動などをしていれば少しは変わったのかも知れませんが、勧誘に来た男女数名を見ていると、皆、心の内に悪性の腫瘍を抱えている様に見え、僕にはどうもそれが哀れに思えてしまい、いつかその腫瘍が互いを蝕んでしまう日が来る事を僕は知っていましたから、ただ毎日男と女が入り乱れるようなサークルにも興味がなかったですし、オカルト同好会というものにも誘われましたが、不穏な話も耳にしましたので、触らぬ神に祟りなしとはまさにこの事で、笑って誤魔化しました。

しばらくして、駅前の居酒屋でアルバイトを始めました。焼き鳥を専門にしている店で、店内は油と汗を含んだ煙で満たされ、人間の愚痴や、愛想笑い、本音といったものが見え隠れしていました。

僕はそこで、渕田亮介に出会いました。彼も僕と同じ大学に通う、年は一つ上の先輩で、ここに勤めて一年以上が経っているとのことでした。身体は貧弱で手足は、一振りすると折れてしまうんじゃないかと思えるほど細く、不健康に見えるほど真っ白な肌をしていました。

その日は金曜日で、店も賑わい、後片付けにだいぶ時間が掛かったのですが、店主の粋な計らいで洗い物は明日に回していいということになり、仕事を途中できりあげ、帰り支度を始めました。「ちょっと外で待っててくれ」着替えを終えた僕に亮介が言いました。

先に外で亮介を待っていましたら、短ズボンにサンダル、バケツ帽を被り、右肩から斜めに伸びた黒色のサコッシュから煙草を取り出し、咥えました。

それまであまり話したことがなかったですから、僕は、ただ、その様子を黙って見ていました。

上手く、火がつかないのか、何度もカチカチと音を立てていましたが、ようやく煙草の先に着火して、口先を尖らせ大きく一吸いしました。

「もう、すぐ帰る?」目線を火種から僕に移し、亮介は言いました。

         ***

続きは9月1日(金)です。
お待ちください。

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