初稿の連載小説「もっと遠くへ」2-4
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父は喜んでいました。そのはずです。普通科に入ったことは知らないのですから。
いつからでしょう。僕の中で、「本音」を隠すという行為が次第に「嘘をつく」という行為にすり替わっていたのです。
三年間、父を騙す事はそう難しいことではありませんでした。
父に対する嘘は板につき、自分のことを名俳優と勘違いしてしまうほどでした。母は、大御所の名女優です。こんな田舎のごくごく普通の家庭に、二人の名俳優が誕生したのですから、父の存在は大きかったのでしょう。
「大事なのは多くを語らないこと、聞かれたことだけを答えていればいい」
母の格言は、僕を更なる千両役者に仕立ててくれました。もちろん、その日はやってきました。
「お前もそろそろ就職やっどが。まずはどこか小さか会社に入ってノウハウを学んでこんか、おいもそうしたで」
と、自慢げに話すのですが、その姿があまりに哀れで、聞けば聞くほど、心を痛めていきました。
本当にこの人は、小学二年の時の僕の言葉を信じて生きてきたのだ、もしかすると、誰よりも素直で、穢れがない男なのかもしれない、やはり、子供のような父だったのです。
「進学を考えてる」
その日の事を忘れることなんて出来ません。南国には珍しい、雪が降る日でした。全国的に寒波が押し寄せてきた年であり、それは、僕が住む鹿児島も例外ではなかったのです。
温度の調整をしくじったのか、お湯割りを啜り、「あたっ」と奇妙な声を上げ、見ると、顔のパーツが全て中心に集まっていました。笑おうにも笑えず、「大丈夫」と心配して見せるのですが、その気遣いが余計に父の感情を煽ることになったのです。
「三年学んだら十分やが、どこへや」
真っ赤に焼けた舌を労わりながら、少し僕の方を見ました。
「東京に行ってみたいなって」
「東京?ないが、そげなもん、勉強ばっかやっちょるビンタがよかやっが行くとこやろが、お前はちごかろが」
父は、大学に行ったことも、専門学校に行ったこともありません。それでもこうしてなんとか安酒を飲むことは出来るのです。飯を食ってはいけるのです。もちろんそのお金で僕は育ってきたのです。
「わいは、高校でないを学んだよ」
急に何も言えなくなりました。父が怖かったからではありません。僕が持つ悪性の腫瘍が父の身体を確実に蝕んでいるのがはっきりとわかったからでした。
「本音」とは、悪性の腫瘍……
正直、そのあと僕が父とどんな会話をしたのか定かではありませんが、母が仲介に入り、その場はなんとか収まったようでした。
***
続きは8月30日(水)です。
来週から二章に入ります。
お待ちください。
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