ななし
知らない天井だ、と最初の頃は思ったものだが、今やすっかり見慣れてしまった。自宅にあるものよりも遥かに寝心地が良く、明らかに高価そうなベッドから身体を起こす。カーテンの隙間から差し込んでくるのは眩しい朝日──ではなく、夕日だ。 思い返せば一頻り家事を済ませて、ちょうど正午を過ぎたあたりだった。さあてシエスタだぜと洒落込んでみたものの、時計をみれば十七時を過ぎたところで、すっかり寝すぎてしまった。そろそろ家主が帰って来る頃合いだろう。 ──いわゆるところの幼馴染である、
同じ職場で知り合った福寿紡は、私と似たような悩みを抱えている。はじめの集団研修でたまたま同じグループになっただけだけれど、こんな人がいるんだと面喰らったものだ。仲良くなるのに時間はかからなかった。 さて、私たちの職場はいわゆるシフト制で、休みが合わないことが多い。けれど、月に一度は同じ日に休みを取って、プライベートで会う機会を作っている。今日は私の家だから、次は福寿の家になる予定だ。 二人掛けのソファに並んで座って、ゆっくりお茶を飲みながら流れる時間は眠ってしまいそうに
私が籍を置く文芸部は、部を名乗ってはいるものの活動らしい活動をしていない。日々部室に赴いては本を読む。それだけ。 ページをめくる音、時間を刻む音。耳に入ってくるのはそれくらいのもの。視界情報はというと、ひたすらに文章を追いかけまわしている。本の中の世界は逃げやしないが、絶え間なく読み進めることが、物語に浸るコツだと私は思う。現実ではない世界への没入は、私にとって幸福を実感できる事柄の一つだ。 「栞」 そんな私を本の世界から引き戻したのは、透明感のある澄んだ声だった。静け
深夜。アルバイトから帰宅して早々に、幸のタックルが腹部を襲った。何すんだこいつ。 「遅い」 「遅くなるって言っただろ。あと痛い」 「こんなに遅くなるなんて聞いてないわ。あんなに朝早く出ていって、夜もこんなに遅くなることなんてなかったじゃない」 「大学行ってからバイトだったんだからこれくらいの時間になるだろ普通」 「私は寂しいと死んじゃうのよ」 「座敷童子が死ぬって何だよ……。雪降るくらい寒いんだから玄関から先に進ませろよ、炬燵が俺を待ってんだよ」 「……私も待ってたのに」
鍋を食べたい、と。 そう言ったのは事実だ。当然だが調理器具の鍋をバリバリ食べたいわけでなく、鍋料理を食べたいという意味。冬といえばやはり鍋だろう。しかしながら暗闇の中、橘花、咲花と鍋を囲むこの状況は、想定していたものとはいくらかのギャップがある。 「なーんで闇鍋になるかなぁ…」 「花霞が鍋食べたいっていうから」 「なんで頭に闇を足した?」 もう少し他にも付け足せる言葉があるだろう。世の中にどれほど鍋料理があると思ってんだ。 「まあいいじゃん、面白そうだし」 真っ暗なの
久しぶりにバイトもない日曜日。起きて早々飛び込んできたのは、ひどく不満げな幸の顔だった。 「たまには構ってくれてもいいと思うの」 「……ちゃんと毎日構ってやってるじゃねえか…」 「いいえ。いいえ、そんなことないのよ。幸也はここのところ、明日も朝からバイトだとか大学の課題がどうだとか言って、ほとんどご飯食べて寝るだけの生活だったじゃない。私を部屋の隅に追いやって」 「追いやるも何もお前は隅っこ大好きっ子だろ」 「それはそれよ。話を逸らさないで」 「わかったわかった。話は聞くか
泉の水は青く透き通っていて、木々の隙間から差し込む陽光を受けてきらきらと光っている。神秘的な光景だ。そんなところに、気がつけば私は立っていた。 「考えてみたらさあ。自分の人生ってなんだったんだろうなあって思っちゃうわけよ」 「はあ、それはどういう?」 「うーん。服とか玩具とか、欲しいっていっても基本お下がりだったし、高校も大学も行きたかったところは落ちて滑り止めだったし、就活も何十社もお祈りされて結局バイトかけ持ちのフリーターだし。誰かと付き合ってみても長続きしないし……。
一年の計は元旦にあるというが、今年の元旦に計画を立てた覚えはないし、何をしていたかも定かではない。いつものように部屋で寝転がってゲームをしていたかもしれないし、テレビを見ていたのかもしれない。少なくとも、今のように公園のベンチに座ってなどいなかった。 「さっむぃ……」 「ほんと寒がりだよなー」 「お前はいいよな、寒さに強くて…」 「んー、まあ寒いは寒いけどな」 隣に座る咲花は手袋もマフラーもしていない。ダウンジャケットの下もトレーナー一枚だというし、雪までちらついている日
「秋ってあんまりイベントないよね」 思い出すのも嫌になるほどの猛暑を記録した夏がようやく終わり、そろそろ袖の長い服が必要になるよな今度買いに行くかと咲花と話していた時だ。 人様のベッドを占領した橘花がぽつりと言った。 俺たちの中での暗黙の了解というか謎ルールというのだろうか。俺の部屋に集まると俺と咲花は床に座り、橘花がベッドに座るか寝転ぶかする。そのまま寝入ってしまうこともあるが、大抵はスマホを眺めている。今日は珍しく何らか雑誌を読んでいるらしかった。 「ハロウィンある
家に帰っても特にやることもないので、放課後は屋上で時間を潰すことが多い。というか最近はずっとそうだ。 無為に過ごす時間を、共有する友人が出来たから。 「和音はさ、部活とか入んないの?」 梅雨の晴れ間、心地好いとは言えない生温い風を受けながら、明空紫音はそう言った。 スマホで動画を見ていた俺は、脈絡もない質問に顔を上げる。紫音はフェンス越しに校庭を眺めているようだった。野球部だかサッカー部だか、何らか運動部の活動を見ているのだろう。 「運動は好きだけど、部活に入るほどじ
「キャッチボールじゃ代わり映えしないし、昨日とは何か違うことしようよ」 そう言った橘に、一も二もなく頷いた俺たちだったが、肝心の何をやるかはなかなか思い付かなかった。 振り返ると、昨日はキャッチボールに飽きた橘花の要望でゲーセンへ行き、目的だったはずのプリクラはガン無視して「勝負だ、かかってこい野郎共」と意味のわからない挑発を繰り返す橘花を二人してエアホッケーでボコボコにして。その後「こっちなら負けないから」と格ゲーへと移行して、俺が橘花を完膚なきまでにねじ伏せ。「先にあ
今年の夏も、結局夏らしいことをしなかったなという話になった。 海はおろかプールにも、祭りにも行っていない。夏らしいレジャーを楽しんでいない。はて、おかしい。俺たち三人はこの夏休み、ほとんど毎日集っていた。それなのにこの体たらく。 しかして、「暑いから出たくない」という咲花の意見と「日焼けするから家にいたい」という橘花の主張。ついでに俺の「積みゲー消化したい」という願望。全てを加味すればそうなるのも当然だろう。 自然と俺の家でひたすらゲームをする日々だったわけだ。楽しか