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隠世見聞録

 泉の水は青く透き通っていて、木々の隙間から差し込む陽光を受けてきらきらと光っている。神秘的な光景だ。そんなところに、気がつけば私は立っていた。
「考えてみたらさあ。自分の人生ってなんだったんだろうなあって思っちゃうわけよ」
「はあ、それはどういう?」
「うーん。服とか玩具とか、欲しいっていっても基本お下がりだったし、高校も大学も行きたかったところは落ちて滑り止めだったし、就活も何十社もお祈りされて結局バイトかけ持ちのフリーターだし。誰かと付き合ってみても長続きしないし……。何だかなあ、儘ならないことばっかりだよ」
 これもまた気がつけば川縁に座するスーツを着た妙な男。どこの誰ともわからない彼にそんな愚痴を溢して、手に取った小石を水面へ投げ込む。
「まあ、人生なんて往々にして儘ならないものですよ。思い通りに事が進むばかりではないということで」
 表情は窺い知れないけれど、言葉尻から漂う哀愁が尋常ではない。
「いやまあそうなんだろうけど。私が聞きたいのはそういう当たり障りのない言葉ではないんだよね。こう、激励的なものを求めてた」
「ああ、そうですか。……めんどくさ」
 今めんどくさいって言ったなこいつ。
 こうも冷めた対応をされると、長々喋っていた自分が馬鹿らしくなってしまう。
 男から少し離れた位置に座り込む。これ以上自身の境遇を嘆く気分にもなれない。しかしそうなると、目を逸らしていた現状が嫌でも気になってくる。
「……ところで、すごく今さらの質問なんですが」
「はい、なんでしょうか」
「あなたは誰で、ここはどこですか?」
「本当に今さらですね」
 心底呆れた、という声色の男。とりあえず弁解しておくことにする。
「いや、だって、考えてみてくださいよ。目が覚めたらいきなりこんな意味不明な場所で、その上よくわかんない男が傍らにいるんですよ。現実逃避の一つくらいしたっていいじゃないですか」
「……まあ、それもそうですか」
 やおら立ち上がり、ゆったりとした歩調で私の前までやって来る。
 見下ろされる形で、真正面から見つめ合う。思わずどきりとする。当然だがそこにロマンチックな意味合いはない。
 黒曜石のような真っ黒な瞳。全てを飲み込んでしまいそうな黒。
「夕凪灯さん。十月七日、午前九時丁度。あなたは交通事故で亡くなりました」
 無機質に名前を呼ばれると、一瞬自分のこととは認識出来ないんだと、私は初めて知った。それよりも大事なことも淡々と告げられているが、情報の処理が追いついていない。
「ここは隠世──あの世とか黄泉の国とか、まあ呼ばれ方は様々ですが、少なくともここではそう呼ばれています」
 そして改めましてになりますが、と男はさらに続けた。
「私はここで主に日本人の案内兼相談役を務めています、羽田喜助と申します。以後お見知り置きを」
 丁寧にお辞儀をする男──羽田を前に、私は呆然とするしかなかった。

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