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双方向的偏愛性世界征服

 知らない天井だ、と最初の頃は思ったものだが、今やすっかり見慣れてしまった。自宅にあるものよりも遥かに寝心地が良く、明らかに高価そうなベッドから身体を起こす。カーテンの隙間から差し込んでくるのは眩しい朝日──ではなく、夕日だ。

 思い返せば一頻り家事を済ませて、ちょうど正午を過ぎたあたりだった。さあてシエスタだぜと洒落込んでみたものの、時計をみれば十七時を過ぎたところで、すっかり寝すぎてしまった。そろそろ家主が帰って来る頃合いだろう。

 ──いわゆるところの幼馴染である、水瀬薫の自宅に軟禁されてからそろそろ一ヶ月くらい経つが、困ったことに何も困り事がない。ややこしいなこの言い方。

 食事も三食用意してくれるし、風呂トイレも自由、部屋も衣類も娯楽品も完備されている。食事は都合上俺が準備することが多いが、夕飯は大抵一緒に作る。「この時間が癒やしだから」だそう。嬉し恥ずかし妙な心持ちだ。

 家から出られないのはやや不満だが、水瀬の家は庭付きの豪邸。たぶん百坪くらいあるし、玄関だけで十畳あると聞いた。掃除して回るだけで運動になるくらい広いし、廃用症候群になる心配は無用というわけだ。

 外部との接触は完全に絶たれているものの、総合的に評価すればQOLは以前より格段に向上していると断言出来る。まあ、これまでの生活がひどかった、というのもあるが。

 コンコン、とノックの音が響いて、それに「どうぞ」と返せば、扉を開けてスーツ姿の水瀬が入ってくる。

「おかえり」

「ただいま」

 水瀬はベッドの上で胡座をかいたままの俺へと一直線に向かってきて、そのまま首に手を回して真正面から抱き着いてくる。仕事終わりは大抵ぐだーっとしているが、いつにも増して強い疲労感を纏っている。

「お疲れ」

「ありがと……」

「何かあった?」

「んー…」

 水瀬は、「別に」と溢して俺の首元に顔を埋めた。ショートボブがさわさわと首筋や鎖骨の辺を撫でて、少しくすぐったい。

「瑞生の匂いがする」

「いい匂いはしないだろ」

「ううん、落ち着く」

「……そうすか」

 少し照れくさいが、そう言われると嫌な気はしない。猫みたいにじゃれついてくる背中を慈しむようにぽんぽん叩きながら、よくよく考えたらこの人に軟禁されてんだよなあと苦笑い。

 この人は俺のことを好いてくれているんだろうなあという確信自体は以前から持っていたが、まさか閉じ込められるほどとは思いもしなかった。

 しかしそれは、心優しい水瀬にそう決断させてしまうほど、俺の生活が荒れていたという証左とも言えるのだろう。ほとんど会社で寝泊まりして、休む間もなく毎日残業続き。家に帰れるのは週に一度くらいのもので、水瀬と顔を合わせる度にひどく心配されたものだった。

 心身共に限界が近かったのも事実で、自身よりも小柄な水瀬に抵抗する力も残っておらず、されるがままに家へ連れ込まれてそのまま軟禁されて。ずるずると一ヶ月も経ってしまって。

 多少の不自由はあるけれども、働いていた頃よりも俺の心は自由を感じている。

「なあ、水瀬」

「名前で呼んで」

「……薫」

「なあに?」

「外出たら怒る?」

「怒る」

「そっかあ」

 市役所とか行きたいんだけども、水瀬を怒らせるのは本意でない。温厚な水瀬が憤怒する様など想像も出来ないが、有言実行の人でもある。「今から瑞生を拐かすから」という宣言の通り、見事に連れ去られてしまっているのだ。そんな水瀬が怒るといえば、まあ怒られるのだろう。

「瑞生は」

 ばっと離れて、今度は肩をがし、と掴まれる。

 こちらを見据えるその目は真剣そのもの。真っ直ぐに、視線で突き刺されると錯覚するほど愚直に、ただ俺だけを見ている。

「瑞生は私だけ見てればいいんだよ、一生ね」

 ふっと微笑んで再び抱擁する水瀬に、ぞくぞくと肌が粟立つ感覚を覚えた。

「ふふ、勝手に出てったら殺すからね」

 温かな雰囲気に反して物騒な文言が飛び出したことに思わず笑ってしまう。

「何が面白いの?」

「いや」

 おそらく、今後の俺は水瀬に縛られて生涯を過ごしていくのだろうと思う。きっと、ひどく限られた自由を謳歌することになるのかもしれないけれど。

 そういうのも悪くないかもなあ、なんて。

 すっかり絆されてんなあ、我ながら。

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